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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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八月三十一日の夕方、日比谷の濠端の空は、妙に赤かった。
警視庁の門の前には、朝から鳥打帽の男たちが群がっていた。妻殺しの侯爵、釈放。どこで嗅ぎつけたのか、新聞の記者たちが、門の両脇に陣取っている。
私は、百合絵様と篠原さんと、門から少し離れた柳の下で待っていた。
帯の中で、大正七年五月の頁が、汗で湿っていた。
門の奥の扉が開いた。
白い光が、ばしっ、ばしっと続けざまに弾けた。マグネシウムの煙が、夕日の中に白く漂う。
その煙の向こうから、黒い三つ揃いの人が、ゆっくりと歩いてきた。
頬が、こけていた。顎に、うっすらと髭が伸びている。上着は皺だらけで、ネクタイは、なかった。
それでも、背筋だけは、まっすぐだった。
黒い革の手袋の手が、帽子を持っていた。
考えるより先に、足が動いていた。
草履が脱げそうになるのも構わずに、私は走った。記者たちのあいだを抜け、マグネシウムの煙を抜けて。
冬馬様が、私に気づいた。
帽子が、地面に落ちた。
次の瞬間、私は、その胸の中にいた。
記者たちの前で。巡査たちの前で。柳の下の、百合絵様の前で。
冬馬様の腕が、私の背中を、痛いほど抱きしめていた。
「信じていた」
耳もとで、掠れた声がした。
「君の目が、私をここから出すと。……信じていた」
私は、何も言えなかった。冬馬様の上着から、煙草と、埃と、知らない場所の匂いがした。
その奥で、あの人の心臓が、鳴っていた。
また、白い光が弾けた。
冬馬様は、腕をほどかなかった。光のほうへ、ゆっくりと顔を向けた。
「撮るなら、撮れ」
低い、よく通る声だった。
「久遠寺侯爵が、妻を抱いているところだ。明日の一面に、大きく載せておけ」
記者たちが、一瞬、静まり返った。
百合絵様が、柳の下で、拍手をした。
門の脇に、古びた外套の人が立っていた。
鬼塚警部補は、帽子を取らないまま、冬馬様に、ほんのわずか顎を引いた。
「礼なら、奥さんに言いなされ。わしは、紙を運んだだけですからな」
それから、私のほうへ、声を落とした。
「遺書を打った者の名は、まだ、書類には書けん。……だが、明日、あの屋敷で何が起きても、呼ばれれば、わしは行きます」
*
迎えの自動車の中で、私は、この八日のことを話した。
閉じこめられた洋館。窓から差し入れられた卵。焦がした卵焼き。大奥様の居間の、行灯の灯り。浅草の長屋の、ふささんの手。明治九年の書付の、旧い紋。
九月一日正午の、親族会。
冬馬様は、窓の外を見たまま、黙って聞いていた。
宗介、という名が出るたびに、手袋の指が、膝の上で、かすかに動いた。
洋館に閉じこめられた話のところで、その指が、固く握りこまれた。
「宗介が、君を、閉じこめたのか」
「私の、身の安全のため、と」
冬馬様は、目を閉じた。
「……私が、何も食べるなと言った家で」
それきり、屋敷に着くまで、冬馬様は口を開かなかった。握った拳は、一度もほどけなかった。
鳥居坂の屋敷の玄関に、自動車が止まった。
式台に、灰色の背広の人は、いなかった。
代わりに、鈍色の着物の大奥様が、立っていた。
「お帰りなさい、冬馬さん」
大奥様は、それだけ言って、冬馬様の帽子を受け取った。白い指が、少し震えていた。
冬馬様は、母上、と一言だけ言って、頭を下げた。
「お鈴は、明日の朝、呼び戻します」
大奥様は、私のほうを見ずに付け足した。
「あの子がいないと、この家の式台は、誰も磨きませんから」
「宗介は」
大奥様は、首を横に振った。
「昼過ぎに、出かけていきました。御分家へ、明日の御案内に伺う、と。それきり、戻りません」
家令室へ行くと、窓際のタイプライターに、白い布が掛けてあった。
帳簿棚の脇の、黒い鉄の金庫。
その扉が、半分、開いていた。
冬馬様が、扉を引いた。中は、空だった。いつも分厚い書類の束が詰まっていた棚に、何もない。床に、紐の切れ端が一本、落ちているだけだった。
大奥様が、冬馬様の背中に向かって、静かに言った。
「冬馬さん。宗介は、あなたの兄です」
冬馬様は、振り返らなかった。
空の金庫を見つめたまま、長いあいだ、動かなかった。
「……知っています」
やがて、ぽつりと言った。
「父の絵の前に立つ栞の顔を見て、わかりました」
家令室の奥の、真柴さんの部屋の襖を、冬馬様が開けた。
六畳の部屋は、きれいに片づいていた。布団は畳んで隅に重ねられ、文机の上には、青黒いインクの壺と、硯と、いつもは家令室の大机に置いてある、黒漆に金蒔絵の文箱が、きちんと並んでいた。
文箱には、小さな錠が下りていた。その鍵は、真柴さんの懐中時計の鎖についている。
「持っていかなかったのね」
百合絵様が、戸口で囁いた。
逃げたのなら、持っていくはずのものだった。
戻ってくるつもりなのだ。明日の正午、この家の家令として。
*
日が落ちきった頃、勝手口に、使いの者が来た。
本所の父の主治医の、白髪の小柄な先生だった。自転車を飛ばしてきたらしく、額に汗を浮かべている。
「奥様。父上は、ご無事です。それは、先に申し上げておきます」
先生は、息を整えて言った。
「今日の昼、父上は、わしの医院へ診せに来ておられた。そのあいだに、借家が荒らされましてな。戸がこじ開けられて、布団がひっくり返されて」
私の指先が、冷たくなった。
「父上が、布団の下に置いていた帳面が、なくなっておるそうです。見本帳と、言っておられました」
見本帳。
父が、火事の夜に、寝床から抱えて逃げた帳面。志摩活版所の、二十年分の仕事。
それを、誰かが、持ち去った。
大正七年五月に、二千枚の罫紙を刷った店の、ただ一つ残った控えを。
私は、帯の上に、手のひらを当てた。
紺の博多帯の、芯の中。半紙に二重に包んで、母の針で縫いこんだ、一枚の頁。
「ここに、あります」
冬馬様が、私を見た。
「大正七年五月の頁は、ここにあります。あの人が持っていったのは、その頁のない、見本帳です」
大奥様が、居間から、一通の封書を持ってきた。
宗秩寮の、厚手の奉書の封筒だった。
「夕方、高階審議官から、使いが参りました。冬馬さんの釈放のことは、聞いた、と。ですが、親族会は、予定通り開くそうです」
「議題は」
「変わりました。当主の進退ではなく、先代の御遺言について」
大奥様は、封筒を、冬馬様の手に渡した。
「先代の御遺言について、新たな申し立てがあった、と。申し立てた者の名は、明日、その席で明かす、と」
明日の、正午に。
冬馬様は、封筒を開かずに、握りしめた。
*
その夜、洋館の厨房に、明かりがついた。
冬馬様が焜炉の前に立とうとするのを、私は止めた。
「今夜は、私が」
八日のあいだ、ろくに物を口にしなかった人に、卵焼きは重すぎる。私は、銅鍋で、米をゆっくりと粥に炊いた。水甕の水を、冬馬様の目の前で汲んで。
梅干しを一つ、真ん中に落とした。
去年の十一月、宇佐美先生が訪ねてくる日の朝に、この人が、私に作ってくれたのと同じものだった。
冬馬様は、匙で一口すくって、黙って口に運んだ。
二口目。三口目。
「……塩が、きつい」
そう言いながら、冬馬様は、最後の一粒まで、きれいに平らげた。
冬馬様が寝室へ上がったあと、私は、一人で、自分の部屋の窓辺に座った。
和館の大広間の雨戸が、閉まっている。明日、あの四十畳に、高階審議官が座り、分家の御当主たちが並び、そして、あの人が、何事もなかったように現れる。明治の日付の、旧い紋の、一通の遺言を持って。
その紙の左下に、何があるのか、私は知っている。
帯の上から、縫いこんだ頁に、そっと触れた。
十五歳の私が、土間の敷石に落として欠けさせた、一本の罫。
「明日の正午に、全部、終わらせます」
窓の外で、虫の声が、少しずつ遠のいていった。
大正十二年、八月三十一日の夜だった。
コメント
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うわあああ…冬馬様、釈放された…!!😭💕 門を出てきたときのあの背筋の伸びた姿、そして栞ちゃんが走って飛び込むシーン、胸がぎゅうってなったよ…「撮るなら撮れ」って記者たちに向かって言い放つの、かっこよすぎるでしょ! 百合絵様の拍手も、鬼塚警部補の「奥さんに言いなされ」も全部沁みる… 最後の粥のシーン、冬馬様が「塩がきつい」って言いながら全部食べたのも、もう愛だよね。 明日の親族会、栞ちゃんの「私が」の決意、震える…次の話が待ち遠しすぎる!!🌸✨