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九月一日の朝、洋館の厨房には、皿が四枚並んでいた。
私の分と、冬馬様の分。それから、見慣れない二枚。
「母上と、百合絵の分だ」
冬馬様は、白いシャツの袖をまくって、銅鍋の前に立っていた。八日のあいだにこけた頬は、一晩では戻らない。それでも、卵を割る手つきだけは、いつもと同じだった。
「今日で、この家の何が変わるかわからない。……一度くらいは、作っておきたい」
私は黙って、隣で葱を刻んだ。
焼き上がった卵焼きを、冬馬様は包丁で切り分けた。端の一切れだけ、少し色が濃い。
冬馬様は、それを黙って自分の皿に寄せた。それから、真ん中の、いちばん厚い一切れを、私の皿に載せた。
「旦那様。焦げたほうは、私が」
「今日は、だめだ」
冬馬様は、こちらを見ずに言った。
「今日の君は、腹を空かせていてはいけない」
この人が、自分の母と妹のために台所に立つのは、嫁いで一年と五月、初めて見る光景だった。
勝手口のほうで、ちりん、と鈴が鳴った。
窓の外を見ると、篠原さんが、黒い自転車を押して裏庭へ入ってくるところだった。荷台から、小さな人影が飛び降りる。
「奥様!」
お鈴だった。風呂敷包みを胸に抱えて、厨房の鉄格子の窓に顔を押しつけている。
「篠原さんが、品川の叔母さんの家まで迎えに来てくれたんです。自転車の後ろって、すごく速いんですね。坂で、死ぬかと思いました」
「友人から譲ってもらった古物です。ブレーキが、少し甘くて」
篠原さんは、丸眼鏡を押し上げて、申し訳なさそうに笑った。
冬馬様が、窓越しにお鈴を見た。
「よく戻った。……腹は減っているか」
お鈴は、目を真ん丸にして、それから大きくうなずいた。
皿が、五枚になった。
*
大奥様が洋館へ来たのは、八時を少し過ぎた頃だった。
鈍色の無地に、黒い帯。応接間の戸口で、一度だけ足を止めた。この家に嫁いで三十年余り、この人は、洋館で食事をしたことがないのだと、百合絵様が耳打ちしてくれた。
卓の上には、白い飯と、豆腐の味噌汁と、卵焼き。
大奥様は、箸を取った。
一口、味噌汁を含んで、それから、卵焼きを一切れ。
長い沈黙があった。
「……辛い」
大奥様は、真顔で言った。
「冬馬さん。お味噌汁に、どれだけお味噌を入れたのです」
「量っては、いません」
「量りなさい」
それだけ言うと、大奥様は、また箸を動かした。
味噌汁を飲み干し、卵焼きを残さず食べ、最後に、茶碗の縁についた飯粒まで、きれいにさらった。
百合絵様が、卓の下で、私の膝をつついた。肩が、笑いをこらえて震えていた。
塩が、きつい。父も、同じことを言った。昨夜の冬馬様も。
この家の人たちは、皆、文句を言いながら、全部食べるのだ。
「母上に作ったのは、初めてです」
冬馬様が、ぽつりと言った。
大奥様は、懐紙で口を拭った。
「……知っています」
扇子を開く音がした。白檀の香りの向こうで、大奥様の目の縁が、わずかに赤かった。
*
十一時。
今朝になって、開会を一時間早めると、高階審議官から知らせが来ていた。和館の大広間に、人がそろった。
上座には、宮内省宗秩寮の高階審議官。灰色の口髭を短く刈りこみ、黒いフロックコートの襟を、一分の隙もなく合わせている。膝の脇には、黒い革の書類鞄。
その右手に、分家の御当主が二人。痩せた白髪の、麻布の御分家。口髭の太った、赤坂の御分家。カフェー・ミモザの奥の席で、厚い封筒を受け取った二人だった。
二人の後ろに、鼈甲縁の眼鏡の男が控えていた。村瀬という弁護士だ。
左手には、冬馬様と私。冬馬様の後ろに、日下部先生が白い顎鬚を撫でている。その隣に、大奥様と百合絵様。
床の間の脇から、先代様の肖像画が、広間を見下ろしていた。左手の人差し指を、左の眉に当てたまま。
「まず、侯爵の御釈放を、お慶び申し上げる」
高階審議官が、低い声で言った。
「ただし、当主が殺人の嫌疑で引かれたという事実は、華族の体面に関わる。宗秩寮としては、看過できん」
「左様。帝都じゅうの新聞が、書き立てましたからな」
赤坂の御分家が、太い指で膝を叩いた。
「奥方を人前で抱きしめて、明日の一面に載せろ、ときた。あれが、久遠寺の当主のなさることか」
冬馬様は、表情ひとつ動かさなかった。
「載ったのなら、本望です」
襖の外で、衣擦れの音がした。
「遅くなりまして、申し訳ございません」
灰色の背広。銀縁の眼鏡。きっちりと七三に分けた、銀の混じった髪。
真柴さんだった。
昨日の昼から姿を消していたことなど、何もなかったような顔で、敷居の外に膝をつき、深々と頭を下げた。黒い腕カバーは、していなかった。
「宗介」
冬馬様の声は、静かだった。
真柴さんは、顔を上げた。目尻に、いつもの深い皺が寄った。
「お帰りなさいませ、御前。……御無事で、何よりでございました」
村瀬弁護士が、膝を進めた。
「申し立て人を、御紹介いたします。久遠寺家家令、真柴宗介殿」
広間が、ざわめいた。
真柴さんは、下座の、いつもの場所に座った。そして、膝の前に、紫の風呂敷包みを置いた。
結び目が、ほどかれる。
中から出てきたのは、一通の書状だった。厚手の、少し焼けた色の和紙。四方を、子持ち罫が囲んでいる。
上端に、紋があった。細い輪の中に、丸い葉が四枚。
「先代様の書斎の、隠し棚から見つかりました。御遺品の整理をしておりました折に」
真柴さんは、書状を両手で捧げ持ち、高階審議官の前に置いた。
審議官が、読み上げた。
「遺言状。一、新橋ふさ所生ノ男子宗介ヲ、我ガ子ト認ム。一、右宗介ニ、家ノ者トシテノ処遇ヲ与フベシ。明治三十八年三月、久遠寺宗隆」
麻布の御分家が、大きく息を吐いた。
「遺言による認知。……日下部さん、これは、法の上で通りますな」
日下部先生は、しばらく黙っていた。
「書状が、本物であれば」
「本物かどうかは、宗秩寮が調べる」
赤坂の御分家が、声を張った。
「だが、侯爵には子がない。嫌疑は晴れても、家の名には泥がついた。当主として、資格に欠ける。隠居を願い、御兄上に家を継いでいただくのが、筋というものだ」
御兄上。
その一言に、百合絵様が、袴の膝を握りしめた。
冬馬様は、肖像画のほうを見ていた。
真柴さんが、うつむいた。左の手が、眉のほうへ上がり、人差し指が、眉の上をゆっくりとなぞった。
床の間の脇で、先代様が、同じ指で、同じ眉に触れていた。
私は、帯の上に手を置いた。紺の博多帯の芯に縫いこんだ、一枚の頁。
それから、手を挙げた。
「その遺言書を、拝見させてください」
広間じゅうの目が、私に集まった。
「嫁が、口を出すことではない」
赤坂の御分家が、顔を赤くした。高階審議官は、私を見て、それから、冬馬様を見た。
「侯爵夫人は、上野の慈善診療会で、医師の診療録を検分なさった方だと聞いている。……よろしい。手を触れずに、御覧なさい」
真柴さんが、顔を上げた。
穏やかな、いつもの笑顔だった。
「どうぞ、奥様。いくらでも、お確かめくださいませ」
本所の借家から、見本帳はもう持ち去った。そういう顔だった。
私は、膝で進み出た。
帯から、鼈甲縁のルーペを抜く。書状の上に、身をかがめた。
墨の色。先代様の御名の、「隆」の旁の、長く引いて跳ね上げる横画。少し焼けた和紙の、繊維の流れ。
そして、子持ち罫。
太い罫の端を、細い罫よりわずかに長く出す、父の組み方。
ルーペを、左下の角へ滑らせた。
太い罫の、外側。
小さな、三角の、欠け。
十五歳の私が、土間の敷石に落とした、あの一本の罫だった。
顔を上げると、床の間の柱の時計が目に入った。
長い針と短い針が、もう少しで、てっぺんで重なろうとしていた。
十一時、五十八分。
コメント
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第71話、読み終わりました…。 冬馬様が初めて母上と百合絵様にご飯を作る朝のシーン、すごく胸にきました。大奥様が「辛い」って言いながらも全部食べ切るところ、百合絵様が笑いをこらえてるの、本当にこの家族の空気がじんわり伝わってきました。 そして最後の遺言状。ルーペで罫の欠けを見つけるところ、あの伏線がここで生きるんだ…って鳥肌立ちました。十五歳の自分の過去と、今この場所がつながった瞬間が美しすぎます。 次の展開が気になりすぎて、心臓がドキドキしてます…!
local99
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瑠璃マリコ
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