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バーを禁じられてから、1週間。
シズカは仕事中も優子の厳しい視線を感じ、息を潜めるようにして過ごしていた。
けれど、目を閉じれば浮かぶのは、あの重厚なラムの香りと、天利の「悲しそうな目」だった。
その夜、シズカはこじんまりとしたアパートの食卓で、母と向かい合っていた。
シズカ「ねえ、ママ……
ちょっと聞いてほしいことがあるの」
シズ母「あら、珍しい
シズカがそんなに神妙な顔して
例の上司にまた絞られたの?」
母親はフライパンを揺らしながら、からからと笑う。
蓼原家の女らしい、竹を割ったような快活な声だ。
シズカは意を決して、喉の奥に詰まっていた塊を吐き出した。
シズカ「……私、好きな人ができたみたい
でもその人……たぶん、パパと同じ側の世界の人なの」
一瞬、換気扇の回る音だけが室内に響いた。
母親の手が止まる。シズカは俯いたまま、絞り出すように続けた。
シズカ「上司にこっそり相談したら、その男は毒だって言われた
あっち側に引きずり込まれたら全部失うって
……わかってる……私もわかってるの
パパが私たちと暮らせない理由も、ママがどれだけ苦労してきたかも
だから……ママに止めてほしいの
そんなのダメって、目を覚ませって、叩いて怒ってほしいの……!」
シズカの目から、堰を切ったように涙が溢れた。
止めてほしかった。
自分の将来や、両親の想いを踏みにじるような真似はしたくない。
けれど、母親は怒鳴ることも、泣き喚くこともなかった。
ただ、熱々の野菜炒めをお皿に盛ると、シズカの前に座って箱ティッシュを差し出す。
シズ母「……シズカ
パパの仕事を知った時、私も同じことを親に言われた
あの男はヤクザで、どんなにカッコつけていても、結局は犯罪者で、一般市民を恐怖に陥れ、食い物にしているロクデナシ
関わったら一生を棒に振るってね」
シズカ「ママ……」
シズ母「でもね、私は止まらなかった。周りが反対すればするほど、あの人の寂しそうな背中を放っておけなくなったのよ
……バカだよね
結局、籍も入れられずにあんたを1人で育てることになったんだから」
母親は少しだけ遠い目をして、自嘲気味に笑った。
シズ母「でも、私は1度も後悔してないわ
あんたを産んだことも、あの人を愛したこともね
……シズカ、あんたの気の強さは私譲り
1度火がついたら、誰に止められても消せないでしょ?」
シズカ「……うん
……ごめんなさい、ママ」
シズ母「謝らなくていいの
ただ、覚悟だけはしなさい
その人がパパと同じ世界の人なら、あんたが彼を愛することは、彼をさらに苦しめることになるかもしれない
光の中にいるあんたを見るたび、その人は自分の影の深さを思い知るんだから」
母親はシズカの手をぎゅっと握り、真っ直ぐに見つめた。
シズ母「それでも行くって言うなら、パパにもママにも遠慮しなくていい
自分の人生、地獄まで付き合う覚悟で突っ走ってきなさい
相手の毒を皿まで食らって飲み干して笑い飛ばしてやんなさい
……パパもママも、そんな男に負けるような柔な娘を育てた覚えはないよ」
シズカは涙を拭い、鼻を啜りながら大きく頷いた。
優子の警告は正しい。
あの男は毒だ。
触れれば、自分のこれまでの人生も、積み上げてきたものも、全部ドロドロに溶けてしまうのかもしれない。
けれど。
シズカ「……ありがとう、ママ」
シズカは、母親の手に自分の手を重ね、力を込めた。
その瞳には、涙の跡を焼き切るような、静かで激しい熱が宿っている。
シズカ「私、もう1度だけ、天利さんに会いに行く
あんなに悲しそうに笑う人が、私にとってだけの『毒』だなんて、不公平だもの
……もしあの人が毒なら、私もあの人の人生を掻き乱すくらいの毒になってやるわ
光が眩しくて彼が苦しむっていうなら、その影ごと飲み込んで、一緒に濁ってあげる」
シズカは、ニカッと母親譲りの快活そうな笑顔を浮かべた。
シズカ「……地獄まで付き合う覚悟なんて、とっくにできちゃってたみたい」
シズ母「ほら!早くご飯食べちゃいな!」
シズカ「うん!」
泣き顔のまま野菜炒めを口に運ぶシズカの背中は、もう、誰の言葉も届かない場所へ走り出そうとしていた。
─── ───
アパートの夕食から一夜明け、シズカは一点の曇りもないスーツ姿で役員室の前に立っていた。
その手には、白封筒。
ノックの音に応えた優子の声は、いつも通り凛としていた。
優子「……朝一番でどうしたの?
例の件、頭が冷えたかしら」
優子はデスクでタブレットを操作しながら、顔を上げずに問いかける。
シズカは無言で歩み寄り、デスクの上にその封筒を置いた。
優子の動きが止まる。
視線がゆっくりと、シズカの顔へと上がった。
シズカ「……優子姉さん、いえ新界さん
これまでのご指導ご鞭撻、本当にありがとうございました
これは、私の我儘です」
優子「……本気なの?
あの男のために、あんたのキャリアを全部ドブに捨てるっていうの?」
優子の声に、怒りと、それを上回る落胆が混じる。
しかし、シズカは真っ直ぐに彼女の瞳を見つめ返した。
その目は、昨日までの迷い子のそれではない。
シズカ「……それだけではありません
私は……あなたを、この会社を、ずっと騙していました」
優子「……どういう意味よ」
シズカ「私の父は、駐車場を経営する実業家ではありません
私は、反社会的勢力の娘であることを隠して入社しました」
役員室の空気が、一瞬で凍りついた。
優子の瞳が大きく見開かれる。政治家一家に育ち、不祥事や「裏」の存在に誰よりも敏感な彼女にとって、それは信じがたい、そして致命的な告白だった。
シズカ「入社して、新界さんに出会って……あなたのような強く美しい女性になりたいと心から思いました
でも、光が強ければ強いほど、自分の影が怖かった
いつかバレて、あなたを汚してしまうのではないかと……ずっと、罪悪感でいっぱいでした」
シズカの目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
けれど、声は震えていない。
シズカ「何も知らない私をここまで育ててくださって、本当にありがとうございました
期待を裏切る形になってしまったこと、死んでも死にきれないほど申し訳なく思っています
……でも、私は、あの人の隣で濁ることを選びました」
優子「……バカな子
そんな覚悟、どこで覚えてきたのよ
あんたをそんな風に育てた覚えはないわ」
優子は手を握りしめ、顔を背けた。
その手は、微かに震えている。
シズカは深く、深く腰を折って頭を下げた。
シズカ「反社会的勢力の娘が、これ以上この会社に……新界さんの側にいるわけにはいきません……
……今まで、本当に、ありがとうございました」
それを聞いた優子は、怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ静かに席を立った。
窓の外を見つめるその背中は、かつてないほどに孤独で、そして強靭に見えた。
優子「……驚いた、まさかこんなに近くに、私と同じ泥を啜っている子がいたなんて」
優子はゆっくりと振り返ると、シズカが置いた辞表を手に取り、迷いなく目の前で破り捨てた。
シズカ「……えっ? 新界さん……」
優子「シズ、言ったはずだよ
反社会的勢力と関わればキャリアはシュレッダー行きだってな
でも、それは『自分から毒を飲みに行った』馬鹿への言葉だ
……あんた、自分の生まれを選んで生まれてきたわけ?」
優子はデスクに手をつき、シズカを射貫くような目で見つめた。
優子「……いい、1度しか言わないからよく聞きなさい
私の実家は政治家を輩出してきた家系よ
でもね、私の弟……正人は、今、極道の組長をやってる
界転組の『政宗』なんてふざけた名前を名乗ってね」
シズカは息を呑んだ。
憧れの、完璧な光の中にいるはずの優子の口から、信じがたい言葉が漏れる。
優子「あんたの理屈で言えば、身内に反社がいる人間がこの椅子に座っていること自体が、この会社への冒涜だっていうこと?
もしあんたが父親の件で辞めなきゃいけないなら、私は今すぐこのビルから飛び降りなきゃいけなくなる
……冗談じゃない、私はそんなに安っぽい女じゃないよ」
優子はシズカの肩を強く掴み、その瞳の奥にある「罪悪感」を真っ向から否定した。
優子「親が誰かなんて関係ない
大事なのは、あんたがここで何を成し遂げたかよ
あんたは私の最高傑作だ、シズ
こんな紙切れ一枚で、私の教育を無に帰すなんて許さない」
シズカ「でも……私は、あの人に……天利さんに、会いに行きたいんです
新界さんを裏切ってでも……!」
優子はふっと、男勝りな、けれどひどく悲しげな笑みを浮かべた。
優子「……会いに行きな
地獄を見に行くなら、いつでも戻ってこれる場所を作っておくのが、上司の務めだ
あんたは、ここで働き続けなさい
泥水を飲んで濁ったとしても、その汚れを私が全部、この会社ごと飲み込んでやる」
優子は破り捨てた紙屑をゴミ箱へ放り投げた。
優子「その代わり、約束しなさい
その男が本当にあんたを壊そうとしたら、その時は私がそいつを東京湾に沈めてやる
……分かったね?」
シズカは溢れる涙を拭いもせず、何度も、何度も頷いた。
罪悪感という重石が取れたわけではない。
けれど、自分を「共犯者」として受け入れてくれた優子の強さが、シズカに本当の勇気を与えた。
シズカ「……はい、優子姉さん
……行ってきます」
優子「ええ
……明日、目が腫れてたら減給だからね
さっさと行きなさい」
優子の厳しくも温かい背中に見送られ、シズカは役員室を飛び出した。
もう、迷いはない。
自分は「反社会的勢力の娘」であり、「新界優子の部下」であり、そして「天利を愛する女」だ。
そのすべての顔を抱えたまま、彼女は夜のバーへと走り出した。