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その夜。
夜風を切り裂くようにして走ったシズカは、2週間前と同じ、けれど決定的に違う心持ちで、地下へと続く階段を駆け下りた。
重厚なオークの扉を、躊躇いなく押し開ける。
カラン、と2週間ぶりに聞くドアベルの音は、今の彼女には福音のように響いた。
店内には、あの重厚なラムの香りが漂っている。
カウンターの隅。
琥珀色の液体が入ったグラスを見つめる、なまっ白い横顔。
軽くウェーブしたダークブラウンの前髪が、微かな空調の風に揺れていた。
─── ───
いつものバー。
俺は1人、氷の溶け切ったラムを眺めていた。
天利「(あの子はもう来ないだろう……
来させてはいけない……)」
そう自分に言い聞かせた瞬間、ドアベルが鳴った。
天利「……悪いけど、お嬢さんの座る席も、飲ませるジュースも、もうここにはないよ」
顔を上げず、拒絶の壁を築く。
だが、彼女は怯まずにコツコツとヒールを鳴らして俺の隣の席を奪う。
シズカ「天利さん
……今日は、ずいぶんと冷たいのね
しばらく来なかったから拗ねてるの?」
天利「……違うよ。おじさんは、もともと冷たい人間なんだ。それに、君ももう気づいてるんじゃないの? おじさんは毒だ」
俺は氷の溶け切ったグラスを見つめたまま、自嘲気味に吐き捨てた。
天利「関われば、君の真っ当なキャリアも将来も、全部ドロドロに溶けてなくなる
……あの上司の言う通りだよ
彼女の守る『光の世界』に、俺みたいな掃除屋の居場所なんて、最初からないんだ」
シズカ「…………っ」
天利「君みたいな、普通の家の娘には耐えられない場所なんだよ
……帰りなさい、お嬢さん
彼女にこれ以上、心配をかけるんじゃない」
ここ彼女の動きが止まる。
1週間、必死に自分を律して、天利を遠ざけようとしていた優子の顔が浮かぶ。
けれど、同時に違和感が心に刺さった。
シズカ「……天利さん。どうして……?」
天利「ん?」
シズカ「どうして、私の会社の上司が女性だって、知っているんですか?
私は今まで、あなたの前で『上司』としか言っていないはずなのに
それに、彼女が私を心配していることまで……」
天利「(しまった、喋りすぎたか……)」
新界から「姉貴がキレてる、部下に手を出すな」と散々怒鳴り散らされた直後だ。
脳内で「上司=優子」という認識が固まっていたせいで、つい口から漏れてしまった。
だが、ここで「君の上司の弟は、俺の腐れ縁の親友なんだ」と明かすわけにはいかない。
それは、今ようやく繋がった細い糸を自ら断ち切るようなものだ。
天利は、困ったように眉を下げると、空いた手で自分のうねった髪を掻き上げた。
天利「……おじさんの『清掃業』を舐めちゃいけないよ
君みたいな綺麗な子が、あんなに怯えた顔で戻ってくるんだ
原因がどこにあるかくらい、大体の想像はつくさ」
シズカ「……想像、だけで?」
天利「それに、君の話に出てくるその上司……随分と苛烈で、情に厚くて、でも自分のルールに厳格そうだ
俺たちの世界でも、そういう『高潔な正義』を振りかざす人間は、大抵決まっているんだよ
……君に毒を吐くのは、君を自分の色に染めて守りたいと思っている『同性』のそれだ」
嘘ではない。優子の気性は、新界から嫌というほど聞かされているが
俺は、自分の失言を誤魔化すように、努めて冷静な「裏の人間」としての観察眼を披露してみせた。
彼女はその言葉を咀嚼するように、俺の手をじっと見つめる。
シズカ「……想像、だけで?
私の憧れている方の気性まで言い当てるなんて、天利さんは本当に不思議な人」
彼女はそれ以上追及しなかった。
シズカ「……普通の家、ですか」
彼女は、ふっと自嘲気味に、それでいてニカッとした、勝気な笑顔を浮かべた。
シズカ「私の父は、昔から忙しくて、家にはたまにしか帰ってこない人でした
……いつもどこか埃っぽくて、服からはお醤油の焦げた匂いと、タバコの匂いがして
……駐車場をいくつか経営しているとは聞いていたけれど、本当は、天利さんみたいに『お掃除』したり、他にも『表には出回らない物』を売買していたのかも……」
俺の指先が、ぴくりと跳ねた。
駐車場経営。
そして、醤油の焦げた匂いと、埃の混じった煙草の残り香。
それが意味する「業種」に心当たりがないわけではない。
だが、何より俺を驚かせたのは、それを語る彼女の瞳に、こちら側の人間特有の「諦念と覚悟」が混じっていたことだ。
天利「……何を、言っているの?」
シズカ「母が申していました
そういう人を愛することは、自分を捨てることじゃなくて、相手の影ごと飲み込むことだって
……父が私たちと暮らせない理由も、母が守ってきたものも、私はちゃんと分かっています
その上で、今日ここに来たんです」
シズカは迷わず、俺の冷えてカサついた手に、自分の温かい手を重ねた。
俺が咄嗟に引こうとするよりも速く、指を絡ませ、逃がさないように。
その小さな掌の熱が、俺の死んだような皮膚をじりじりと焼く。
シズカ「ある人は天利さんのことを『毒』だと言いました
でも、もしこの先に地獄があるっていうなら、1人で行かせたりしませんわ」
天利「……っ」
シズカ「……私を毒だと仰るなら、最後の1滴まで、天利さんが飲み干してくださいな
私も、天利さんの毒を全部、私の中に流し込む覚悟はできていますから」
喉の奥が、焼けるように熱い。
「流されるまま」に生きてきた俺の人生に、これほどまで強烈な意思で割り込んでくる光を、俺は知らない。
……ああ、そうか。
今まで、俺の人生には代わりがいくらでもいた。
「お前『で』いい」
今のポジションも、汚れ仕事も、その片付けも、誰かがやらなきゃいけないから、消去法で俺が選ばれただけだ。
けれど、この目の前の娘は違う。
俺の正体に怯える余地があってもなお、彼女は「あなた『が』いい」と、真っ直ぐに俺の深淵を指名した。
俺という男の「固有の価値」を初めて肯定されたその瞬間に、俺の中に残っていたわずかな理性の防波堤が、音を立てて崩れ去る。
天利「……まいったな。本当に、君は……」
俺は力なく笑い、自分から彼女の手を握り直した。
彼女を「お嬢さん」という檻に閉じ込めておくことも、光の世界へ突き返すことも、もうできない。
いや、彼女自身がその光を脱ぎ捨てて、この泥濘へと降りてきたのだ。
俺は、初めて自分の意志で、自分の「宿命」という流れに、逆らって手を伸ばした。
天利「……毒されて、後悔しても知らないよ
……シズちゃん」
初めて呼んだ、彼女の愛称。
甘やかで、それでいて致命的な痺れを伴うその響きは、どんな年代物のラムよりも深く、俺の脳を支配した。