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清涼院の君は、渡殿を離れ、ほの明るき月の光のもとにそよぐ春の風を浴びつつ、静やかに歩みを進め給う。御簾の帳の隙間より洩るる灯を背に、宵の気配をまといながら、ひとつ思いを胸に秘めておりき。 されば、角の向こうよりかすかに聞こえし足音。気のせいかと立ち止まり給えば、廊のかなたに、誰そと覚しき人影ありぬ。
義房の君、やや伏し目にて佇みおわしき。清涼院の君はふと驚き、しかし嬉しきものに胸の中を満たされし様子にて、小走りに駆け寄り給う。
「御呼びにてございましたか?」
その声音、ほのかに息の上がりたるままにて、けれど真面目にして屈託なき響きあり。義房の君は、不意にその姿を目の当たりにし、面色をやや変え給うた。
「――清涼院様…。いえ、私は…お呼びなど申し上げた覚えは…」
驚きと戸惑いのあいだに立ち尽くしつつ、言葉も整わぬ様子なり。清涼院の君は、それを聞いて軽く首を傾げ、ほんの少し眉をひそめ給う。
「…まぁ、そうでございましたか。では、いったい誰が…」
やわらかき疑念と微笑とがないまぜになりし面差しにて、君はゆるやかに衣の裾を整え、春の空を仰ぎ見給う。
薄月さし昇る渡殿のほとり、春の風もようやく和らぎて、花の香ほのかに漂うなか、ふたりは静かに並び立ちぬ。
その折、義房の君はひとつ息を整え、衣の襟元を正すようにして、わずかに背筋を伸ばし給うた。その面差しは、先ほどまでの穏やかさを帯びながらも、どこか改まりたる気配に包まれておりき。
「…清涼院さま。ひとこと、お伝え申したきことがございます。」
その声音、やわらかにして、しかし底に静かなる決意を湛え、風の音にも消えぬほどにはっきりと響きたり。
清涼院の君は、面持ちを変えずとも、その変化を確かに感じ給うた。そっとまなざしを向け、
「…あらたまって、何事にてございましょうか」
と問いかけ給う。義房の君は、しばし沈黙を置きつつ、桜の花びら舞い落ちるさまを見やりぬ。その背に降る月の光が、その言葉の重みを映し出すかのように、白々と廊に射し入りぬ。
「清涼院さま、私は兼正さまと人生を御話しして参りました」
「本当に……あなたは強い方なのですね。
その心の強さに、ただただ驚かされるばかりです。」
渡殿の灯のもと、春の夜気はひややかにして、花の香おのずと満ち満ちたり。
その静けき場において、義房の君はふいに歩を止め、つと膝をつき給うた。ひたと清涼院の君を仰ぎ見れば、その面持ちには、もはやためらいの影すらなかりけり。
衣の裾を正し、声を結びしのち、力強く言の葉を放たれぬ。
「清涼院さま。たとえ世のしきたりに阻まれようとも、私の想いは、決して揺らぐことはありませぬ。」
その響きは渡殿に澄み渡り、風の音すらひととき身を潜めたかと思われぬ。静まり返る宵の気配のなか、ただその声のみが真を宿して響き、まるで胸の奥深くへと沁み入るかのような力を帯びておりき。
清涼院の君は、その場に立ち尽くし、言葉を持たずとも、その目元には明らかなる驚きと、胸奥に忍び寄る微かな揺らぎが、淡き影のごとく差しておりぬ。
「どんな壁が立ちはだかろうとも、あなたにお会いできるのなら、それに勝る喜びはありません。もはや、何も恐れるものはありません。」
「たとえこの世の風がいかに荒れ狂おうとも、あなたに一目お会いできるのであれば、これ以上、いったい何を恐れることがありましょうか。」
義房の君は、なおも膝をつきたる姿のまま、清涼院の君を見上げ給う。春の月影、淡くその面を照らし、衣の裾にさえ花の香ほのかに沁み入りし宵のことなり。
その唇より紡がれたる言の葉は、初めこそおだやかに、されど語を重ねるごとに次第に熱を帯び、語尾はあたかも心の奥底より突き上げらるるように強まりたり。
「わたくしは、誰かの代わりなどにて、義房さまの側にいることなど…そのような栄など、願ったことはありませぬ。」
言の葉は確かに、渡殿の柱にさえ響くほど、力強さをまといたり。
「…ただ、わたくしは、清涼院さま、あなたそのものを――」
その一言を告げたるとき、義房の君の声音は不思議とやわらぎ、まるで愛し子に語りかけるごとく、あるいは夢の途上にて言葉を交わすように、静かに問いかけるようでありき。
「……それでも、わたくしでは…いけませぬか。」
そのまなざしは強くもなく、求めるばかりでもなく、ただひたと清涼院の君を見つめ給う。その瞳の奥に浮かぶは、名もなき願い、名もなき祈りのような、誠実なるひとしずくなり。
夜風は廊に満ち、咲き遅れた桜の花が、音もなくふたりのあいだをすり抜けて、地に落ちにけり。
義房の君の問いかけの余韻、まだ廊の木々に宿る折、清涼院の君はそっと面をそらし、欄干の向こうに広がる夜の庭を見やり給うた。
月は朧にて、咲き遅れし桜の花ひとひら、風に舞いて水面に落ちたり。
その光景にまなざしを留めながら、君は胸元に手を添え、声とも息ともつかぬほど細やかに呟き給う。
「たとえ正妻であろうと、あるいはただの側に仕える身であろうと……」
「あの方が、私にほんの少しでも心を寄せてくださっているのではないか……そう思わずにはいられません。けれども、それは思い過ごしではございませんでした。」
その声音、あまりにかすかにして、義房の君にすら聞こえたか否か。それでも、その背中に漂う気配には、確かなる寂しさと、言葉にせぬ想いの翳がほのかに差し、春の夜の静けさと一つに溶けておりき。
風は、しばしふたりのあいだをそっと吹き過ぎぬ。
その細きつぶやきを聞きとめし義房の君は、胸奥に何かがふと触れたように、ただ黙して君の横顔を見つめ給う。
ひそやかなる夜の帳のうち、風は櫻の枝をくぐりて音もなく吹きわたり、花びらひとひら、清涼院の君の肩にそっと落ちたり。その白き袖の上に静かに舞い降りたるそれを、義房の君はそっと目にとめ給う。
やがて立ち上がり、言葉少なに歩み寄り給うた。
「清涼院さま」
その声音、先の強さとは異なりて、今はまるで微風のように柔らかく、けれども真っ直ぐなぬくもりを帯びておりき。
「あなたの美しさは、誰が見ても明らかなことでしょう。それでもあの方は、よくご存じであった上で、あらためて「美しい」と、静かに、でも確かにおっしゃってくださったのです。」
清涼院の君は、少し遅れて顔を向け給う。瞳の奥に翳り残しながらも、まなざしは確かに義房の君を映していたり。
言の葉は少なけれど、その瞬間、ふたりのあいだには語られぬ想いが、そっとたゆたう春の夜気にまぎれて流れていた。
「そのひと言が、どれほど嬉しく、胸に沁みたことでしょうか」
義房の君の静かなる言の葉は、夜の帳をすり抜け、清涼院の君の胸の奥深くへと染み入りぬ。
その一言を耳にした刹那、君はふとまなざしを逸らし、唇をきゅっと結びて、ただ黙し給うた。されど、堪えし感情はわずかに目元を揺らし、やがて透きとおる露のごとき涙ひとしずく、音もなくその頬をつたりぬ。
月影、淡くその顔を照らし出し、涙の筋もほの白く輝きて、まことに哀しくも美しきかな。
清涼院の君は袖をあげることもせず、ただそっと欄干に視線を落とし、かすかに肩を震わせながら、胸の内に満ちゆく想いと向き合い給うた。
その姿を前に、義房の君もまた言を発することなく、ただ静かにその涙の行方を見守られたり。
夜はますます深まりて、ふたりを包む沈黙の中に、言葉以上のものがそっと結ばれてゆきけり。