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この日、殿のあたりは朝よりざわめき多く、女房らの行き交う衣擦れの音すら、何やらせわしなう聞こえたり。兼正の君は、胸の奥にわずかなる不安を覚え給うて、帳を払い廊の外へと歩を運ばれけり。 渡殿のかたわら、あたりの気配をうかがえば、誰そ話し合う声ひそひそと漏れ聞こえ、いつもならば静謐なる東の廊も、何やらただならぬ雰囲気に包まれていたり。
やや身を隠すように柱の陰に寄り、耳を澄ませば――
「…それが本当なら、赤子の取り違いにて…」
という、ひとりの女房の声、確かに届きけり。
兼正の君は思わず息を呑み、眉をひそめぬ。言の葉の意味をすぐに解せども、なお信じがたく、その場より足を動かすことすら叶わず、ただ耳を欄干の向こうに澄まされぬ。
風は凪ぎ、花の散り残りし枝の間に、緊張の色だけが漂いぬ。誰かが、そっと簾を揺らしたかと思えば、また別の声が囁かれ、しかし明瞭に聞きとれるものはなし。ただひとつ、「赤子」「入れ違い」「身分」といった言の葉の断片のみが、春の空気を裂いて響きたり。
兼正の君の胸中には、波のように不穏の念が押し寄せ、かすかに震う手を袖に包みて、なお動かずにそこに留まり給うた。
その日も変わらず、清涼院の君は梅の君の許を訪れ給う。常より穏やかなる歩み、衣の裾を軽やかに曳きながら、庭の小道を渡りて、やがて御簾のもとに姿を現し給うた。
されど、帳を分けて現れしその面持ちは、いつもの晴れやかなる笑みにあらず。まなざしはどこか曇り、声には細き震えを帯びておりき。
梅の君はすぐにそれを見とめ、眉をひそめて案じ給う。
「清、何やら、ご気分すぐれぬご様子…」
と問いかけたまえば、清涼院の君はふと目を伏せ、袖口に唇を寄せ給うたまま、ひとしずく、またひとしずくと、涙をぽろりぽろりとこぼし給う。
その涙は、声も立てず、ただ静かに頬を伝い、白き袖に染み入りぬ。花も息をひそめしような静けさの中、清涼院の君はつと顔を伏せたまま、ただ嗚咽もせず涙を流しおわしぬ。
梅の君は、その姿に言の葉を失い、ただそっと側に寄り、袖に手をそえて、そのぬくもりを以て支えんとし給うた。
梅の君は、黙したまま袖に顔を伏せる清涼院の君の肩に、そっと手を添え給う。まるで夜に咲く白梅の一枝を撫でるかのごとき、そのやさしき所作に、清涼院の君はかすかに肩を震わせぬ。
「…どうか、我に話してはいただけませぬか。ずっと胸にしまわれていては、あなた様の心がいたみましょう」
梅の君の言葉は、春の霞のようにやわらかく、されど揺るぎなく響きたり。
しばしの沈黙ののち、清涼院の君はようやく顔を上げ、涙に濡れた睫毛の奥から、ぽつり、ぽつりと言の葉をこぼし給う。
「以前……梅にわたくしの子がいなくなってしまったとお話ししましたよね。
あのときは、自分の育て方が悪かったのではと、ずっと思い悩んでいたのです。
でも、どうやら子どもが取り違えられていたようで……わが子は、都の底に沈められていたのだとか…。」
その面差しには、過ぎし日の記憶と、今なお胸に灯る想いとが交じり合い、揺らめく水面のようなやさしき陰をたたえておりき。
梅の君は静かに聞き入り、うなずくでも慰めるでもなく、ただ寄り添い続けるのみなり。そこには、ことさらに言葉を尽くすよりも深き、真の親しさが宿っていた。
外には春の雨音がそろそろと降りはじめ、ふたりの語らいをさらに静かに、密やかに包みこみぬ。
雨音は遠く瓦を打ち、庭先の青葉を濡らして、やわらかなる雫を伝えけり。清涼院の君は袖に頬をあてたまま、しばらく言の葉を探しておわしけれど、やがて細き声にて、ぽつりぽつりと語り始め給う。
「…我が子を守る為、誰かのために生きることが、美しいことと思うておりました。それが、この身に与えられたる役目と…そう信じてきたのです」
涙の名残はまだ睫毛に残りて、しかしその面には、悲しみを越えてなお言葉を紡がんとする静かな気丈さが漂いおりぬ。
「けれど、それでも…心は、違うと申しますの。我が子を忘れようとしても、想いは消えませぬ。わたくしは…心のあるままに、生きてはならぬのでしょうか」
梅の君は、なお黙して清涼院の君の袖にそっと触れ、頷くでも否定するでもなく、その存在をもって寄り添い給うた。
「清、そのお心があるからこそ、皆があなた様を慕うのです。悲しみも、揺らぎも…そのままにして、よろしゅうございます。我は、いつまでも、ここにおります」
その言の葉に、清涼院の君はようやく涙を拭い、静かに笑みを浮かべ給うた。その微笑みは、春雨にふるえる花びらのように、儚くも確かなる光を帯びておりき。
そして、ふたりはただそのまま、言葉少なに寄り添いぬ。雨は絶え間なく降りつつも、心の奥にひとしずく、やさしきぬくもりが差していたり。
雨音はやや細くなり、庭の若草を潤すしずくも、やさしく地に吸い込まれてゆくばかり。帳のなか、清涼院の君は袖に濡れた頬をそっとあて、やがてゆるやかに顔を上げ給うた。
瞳の奥にはまだ涙の名残をとどめながらも、その面差しには、微かな安らぎの色がさし始めておりき。
梅の君は黙して寄り添い、ただその変化を見守られたり。
「…お心づかい、まことにありがたく存じます。こうして、誰かの前で涙をこぼすことなど、もう無うなるものと思うておりました」
と、清涼院の君は静かに微笑みを浮かべ給う。その笑みは、深き淵よりようやく水面に差し昇る陽の光のように、儚くとも確かなあたたかさを帯びていたり。
梅の君はふと目を細め、少しだけ声を和ませて申されぬ。
「よろしゅうございます。人は、心をひらいてこそ、また歩めるのでございましょう。清の明日のお姿が、いまより少し軽やかならば、我も嬉しゅうございます」
清涼院の君はその言葉に頷き、小さく肩を落として息をつき、やがて雨上がりの空を思わせる澄みやかなまなざしで、帳の外を見やり給う 夜は静まり、灯のゆらめきのなかで、ふたりの語らいはなお続きぬ。