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その頃、常春《つねはる》は、晴康《はるやす》の元へ向かっていた。
塗篭《ぬりごめ》へと、伸びる渡り廊下が疎ましかった。
気ばかりが、急いて足がもつれそうになる。
それほど、常春は、嫌な予感に襲われていたのだ。
ニャー、ニャーと、猫の声が響いていた。北の対屋《ついや》に入ったとういうことだ。
守満《もりみつ》と、守恵子《もりえこ》の悲鳴のような声が流れている。
と、言うことは……。
タマの言った通り、守近は、いないのだろう。
もし、表へ、行っているだけなら?
そうあって欲しかった。
しかし……。
守近は、塗篭にいる。晴康と会っている。と、どこからかやって来る確信に、常春は従うよう、北の対屋に接する、塗篭へと足を進めた。
その、房《へや》が、見えてきたとたん、開け放たれている、入口から、晴康の声が漏れてきた。
「……あなたは、一の姫を、好いていたのですか?何故、徳子《なりこ》様と一緒になってまで……いえ、それよりも、まだ、通じていらっしゃるとは、どうゆうことです?守恵子様まで、あなたは……苦しめるつもりですか?」
一の姫──。そう聞こえた。
常春は、耳を疑っていた。どうして、あの、昔の五節舞の話が、出て来るのだろうかと。
確か、徳子を目の敵にしていた姫で、そして、守近の友である、斉時《なりとき》の正妻、安見子《やすみこ》を、側に置いていたらしい、そんな、話であったはず。
「それで?美丈夫《びじょうふ》よ、お前は、何が、言いたいのだ?男が女と通じるのは、世の常であろう?」
恐ろく冷たい守近の声が、晴康を責めたてる。
やはり、守近は、表へ行く振りをして、塗篭《ここ》に、来ていた。それは、あの、書き付けを処分するためなのか、それとも……守近も、晴康が、自分を待っていると、分かっていたのか。
常春の頭の中は、混乱していた。今に、いるはずであるのに、漏れ聞こえるものは、過去を遡《さかのぼ》り過ぎているからだ。
「ええ、それは、大納言様、あなたの自由です。責めたところで、皆やっていることと、片付けられる。ただ、お相手は、よくよく、選ばれた方が……」
「私は、選んでいるつもりだが?公にはしていなかったが、あれは、私の許嫁だった」
「その、慕情に流されて、とは、さすがですね」
二人は、何事もないように、言葉を交わすが、ははは、と、晴康のあからさまに見下すような笑い声だけは、異常に、響き渡っていた。
常春の足は止まり、隠れるかのように、格子《かべ》に、身を寄せている。決して、立ち入ってはならないと、自身へ、必死にいいきかせながら。
恐ろしいほど、憎悪の感が、晴康から溢れだしていた。あの友が、あそこまでの嫌みを、口にするということは、守近と二人だけの秘密、人に知られてはならない事を、暴きにかかっているということだろう。
晴康の力を使えば、大概のことは、読み取れてしまうのに、それをしないということは……、晴康自身、対決して確かめたい事なのがあるのか。
──預けし某童子。
あの、書き付けに記されていた言葉を常春は思い出す。
対決、してはいるが、そう、二人は、親子、なのだ。なのに、何故、ここまで憎みあうのか……。
「して、聞くが、お前は、何故、守恵子に、まとわりつく?あれの、幸せを願ってやれぬのか?」
「ならば!なぜ、一の姫、いえ、小上臈《こじょうろう》様と、通じて、守恵子様の入内をお運びになる!それも、俗な、琵琶法師一味などを使ってまで!」
常春は、思わず、自身の口を両手で押さえていた。驚きから、うっかり、声を漏らしそうになったからだ。
ここで、二人に、姿を見られてしまっては、厄介なことになる。
しかし、小上臈といえば、宮仕えをしている、大臣、納言、参議など公卿の娘のことであり、一の姫は、かなり身分ある姫君であったのか。だが、帝の側仕えには選ばれず、宮中勤めを余儀なくされている……。
その、宮の中と、外、つまり、琵琶法師一味と通じ、守近は、守恵子を宮中へ、送り込もうとしていると。
まさか!
常春には、この一言しかなかった。
塗篭の内では、親子であるはずの二人が、痛々しいほど、罵りあっている。
呆然としながらも、常春は、事の次第を確かめるべく、耳を澄ませた。