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その言葉に、一花は目を見開く。
「……え?」
「俊介さん、ずっと苦しんでいたんです」
牡丹はちらりと俊介へ視線を向けると、労わるような声で続けた。
「ようやく、自分らしく笑えるようになりました」
「牡丹」
俊介が低い声で名前を呼ぶ。
制するような響きがあったが、牡丹は気に留める様子もない。
「これで、みんな幸せになれます」
その言葉に、一花の胸がざわついた。
(みんな……幸せ?)
これのどこが、幸せなのだろう。
自分と悠真がこんな目に遭っているのに。
それに――その言葉を、どこかで聞いたことがあるような気がした。
けれど、すぐには思い出せない。
一花が記憶を辿るより早く、牡丹は変わらない笑みのまま、さらに告げた。
「これでもう、隠す必要もありませんから」
「……隠す?」
一花は俊介を見る。
「どういうこと……?」
俊介は何も言わなかった。
二人の間にある距離は、あまりにも自然だった。
そこでようやく、一花の中に浮かんだ考えが輪郭を持ち始める。
「もしかして……」
まさか、と喉が震えた。
「この人と……そういう関係だったの?」
俊介の表情が強張った。
「私たちが夫婦だった頃から……?」
否定の言葉は返ってこない。
その時、一花の脳裏に、ひとつの記憶が蘇った。
春子の葬儀。
棺の前で落ちた花を拾い、一花へ差し出してくれた手。
『どうぞ』
『仕事でお世話になってる人なんだ』
『このたびは、ご愁傷様でした』
あの日の牡丹も、今と同じように微笑んでいた。
まるで本当に、春子の死を悼んでいるような顔で。
一花の指先が震える。
あの時には、もう。
この女は、俊介と――。
「……違うよね?」
一花は俊介を見た。
声は、泣き出しそうに掠れていた。
「違うって、言って」
俊介は唇を噛んだまま、目を逸らした。
一花は待った。
たった一言でいい。違うと、そう言ってくれればよかった。
けれど、その言葉はいつまで経っても返ってこない。
胸の奥で、最後まで縋っていたものが、静かに崩れていく。
俊介の沈黙が、何よりもはっきりした答えだった。
堪えていた涙が頬を伝う。
それでも一花には、もうひとつだけ、どうしても確かめなければならないことがあった。
「じゃあ……今まで仕事だって言って出ていった時も、この人と一緒にいたことがあったの?」
目を伏せる俊介を前に、これまで見過ごしてきたことが、嫌な形でひとつずつ繋がっていく。
帰りが遅かった夜。仕事だと言って家を出た日。
そして最後に、一花の脳裏へ浮かんだのは――あの日だった。
「……もしかして、火事の日も?」
俊介の肩が微かに揺れた。
「仕事だって言ってたよね」
「一花……」
「あの日も、この人と一緒にいたの?」
返事はなかった。
その沈黙を前に、一花の身体からすっと力が抜けていく。
指先が冷たくなり、足元まで遠のいたような感覚に襲われた。
自分と悠真が炎の中にいた時。春子が命を落とした時。
俊介は、この女と一緒にいた。
「……私じゃなくて」
一花の声が掠れる。
「悠真じゃなくて……あなたは、この人を選んだんだね」
俊介は苦しげに目を閉じた。
「……ごめん」
返ってきたのは、それだけだった。
一花の胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
そんな二人のやり取りを見届けると、牡丹は何事もなかったようにバッグを開いた。
取り出したのは、一枚の名刺だった。
「生活が大変だと聞いています」
差し出された名刺を、一花は見つめる。
「もしお困りでしたら、ご連絡ください。治療費でも、生活費でも、ご相談に乗れますから」
一花は手を伸ばさなかった。
すると牡丹の視線が、ほんの一瞬だけ、一花の火傷痕へ落ちる。
「形成手術も、これから大変でしょう?」
胸の奥に、別の痛みが走った。
一花は何も言わず、拳を強く握りしめる。
「西園寺グループなら、お力になれることもあると思います」
「……いりません……っ」
絞り出すように答えると、牡丹はわずかに目を細めた。
「そうですか」
拒絶されたことなど意に介していないように、また穏やかに微笑む。
「でも、いつでも頼ってください」
そう言って首を傾げた拍子に、耳元の蝶のピアスが小さく揺れた。
「あなたは俊介さんの、大切な人でしたから」
その過去形が、胸の奥を鋭く抉った。
もう、自分は俊介の人生から切り離された人間なのだと、わざわざ言葉にされたようだった。
「……行きましょう、俊介さん」
牡丹が踵を返す。
俊介は最後まで一花と目を合わせることができないまま、そのあとを追った。
二人分の足音が、夜の街へ少しずつ遠ざかっていく。
一花は、その背中が見えなくなるまで動けなかった。
どうやって榊の事務所まで辿り着いたのか、一花自身にもよく分からなかった。
ただ足だけを動かしていた。
信号を渡った記憶も、どの道を通ったのかも曖昧なまま、気づけば事務所の前に立っていた。
震える手で扉を開ける。
中にいた榊と神崎が同時に振り返った。
一花は何か言おうとした。
三枝について分かったことを聞きに来たのだ。榊が何を掴んだのか、ちゃんと聞かなければならない。
そう思っているのに、喉が固まったように声が出ない。
「朝倉さん?」
神崎の声が聞こえる。
一花は一歩だけ室内へ入った。
次の瞬間、張りつめていた力が一気に抜けた。
「朝倉さん!」
膝から崩れ落ちる一花へ、神崎がすぐに駆け寄って身体を支えた。
一花は立ち上がろうとしたが、足にまったく力が入らない。
「どうした? 何があった?」
榊もすぐそばまで来る。
一花は何度か息を吸おうとしたが、胸の奥が詰まり、うまく呼吸が続かなかった。
その代わりに、堪えていた涙だけが次々と溢れてくる。
「俊介……」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
「俊介……浮気してたんです」
榊と神崎の表情が止まる。
「私、知らなくて……」
口にした途端、それまでどうにか押さえ込んでいたものが崩れた。
「ずっと……何も知らなくて……」
借金を隠されても。
火事のあと、どれだけすれ違っても。
それでも、夫婦だった時間まで嘘だったとは思っていなかった。
「火事の前から……続いてたって」
涙を拭おうとしても、次から次へと溢れて止まらない。
「……相手は……」
もう拭うこともできない涙をそのままに、一花は顔を上げた。
「西園寺牡丹」
その名を聞いた瞬間、榊と神崎の表情が一変した。
どこか呆然とした神崎の口から、その名がもう一度零れる。
「西園寺……牡丹?」
コメント
1件
うわ……この話、胸に来ますね。一花が「違うって言って」とすがる場面、本当に切なかった。沈黙が何よりの答えだって分かってるのに、それでも信じたかったんだろうな。火事の日に俊介が牡丹と一緒にいたっていうのは、読んでて胃が冷たくなりました。牡丹の「いつでも頼ってください」の言い方も、優しさの皮を被った残酷さがにじんでて怖い。榊たちが「西園寺牡丹?」と動揺したのも気になる——ここからまた動きがありそうです。
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