春の陽は傾きて、庭の片隅に咲き誇る山吹のもと、小さき童はひとり佇みたり。色つき始めし草の上に裾をたたみて坐し、丸き頬を風にさらしながら、じっと母君の来たるを待ちわびておりぬ。
時折、御簾の向こうを見上げては、袖を軽く握り、つぶやくように言い給う。
「…清、まだ…来ぬのか…」
その声、あまりに細やかにして儚く、風の音に紛れて聞き逃しそうなほどにてありき。されど、そこには寂しさを隠しきれぬ想いが滲み、花の咲きこぼるる景色さえ、どこか翳りを帯びて見ゆるほどなり。
童の眼差しは、庭の御堂の方を、何度も何度も見返しぬ。やがて、小さき手のひらに花びらを拾い集めて、そっと膝の上に置き、まるで贈り物の用意でもするかのように、大切そうに抱えたり
小さき声は、ほのぼのと咲く山吹の影に消え入りぬ。童は手のひらにのせた花びらをじっと見つめ、その淡き色に母の姿を重ねるようにしておりき。
さればそのとき、御堂のほとりより、絹の衣擦れの音、やわらかく届きぬ。童の肩がふるりと揺れ、そっと顔を上げたり。
そこにあらわれしは、まさしく清涼院の君。月を背に、仄かにほほえみを湛えたるその面差しは、まるで春の神のごとく、やさしく夜に差し映えぬ。
「待たせてしまいましたね…。」
その声音、まことにやわらかく、童の胸にまっすぐ届きたり。童はぱっと立ち上がり、花びらを忘れたるごとく走り寄りぬ。
「清……」
清涼院の君はひざを折り、両の腕にその小さき体を抱きとめ給う。ほのかに花の香ただようその抱擁は、言葉よりも深く、胸の奥に沁み入る愛情の証なり。
夜風は静かにふたりを包み、散り敷く花びらは、まるで祝福のごとく地に舞い降りたり。 清涼院の君は、走り寄りたる童の顔を見やりつつ、やわらかく衣の裾をたたみて、そっとその前にしゃがみ給うた。月明かりに照らされし庭の端にて、君は膝を折り、童と同じ高さにてまなざしを合わせ給う。
「…まあ、よい子にして待っていてくださいましたのね。」
と、声細やかに、あたたかく語りかけ給へば、童の瞳はぱっと光を宿し、まるで春の水面のように揺れぬ。その頬に手を添えて、清涼院の君は微笑み給う。母として、ひとときの世の憂きことを忘れ、ただこの子との時間に心を傾けたる様子なり。
花の香そよぐ中、ふたりを結ぶ目線は、言の葉より深く、やさしく静かなる絆を物語りぬ。
「清は私の名前を知りたいとおっしゃった。けれど我は、自分の名を持たぬ」
清涼院の君は、童の前に静かにひざを折り、その目線をやさしくたどり給う。夜風に揺れる御髪の隙間から、柔らかき微笑みが浮かび、そのまなざしは、春の月の光さながらに、仄かなる慈しみを湛えておりき。
「それならば」
と言いつつ、君は童の額にそっと手を伸ばし、やわらかき指先にて髪を撫で給う。その所作、風に咲く花を扱うがごとく慎ましく、愛しさの色、袖の奥にまで満ち満ちたり。
そして、くぐもるような声にて、しかし確かなる響きにて言い給うた。
「私が決めましょう。」
そのひとことに、童の頬はぱっと紅に染まり、目元に安心の光さしぬ。まるで、自らのすべてを預けても悔いなき相手と知る幼き者の、無垢なる信頼のまなざしなり。
花のかげ、風のなか、母と子の静かなる契りは、言の葉より深く、この春の夜にそっと刻まれていきたり。
「“梅”という名前、いかがでしょうか。私がいちばん好きな花なのです。」
その折、童の口よりふと「梅…」との一言、たどたどしくも洩れいでしに、清涼院、はたと息を呑みて面持ちかすかに翳りぬ。
「いかに…お気に召さぬのかしら…」
と、心ひそかにざわめきて、扇を持つ手もおのずと揺るぎたり。
けれども、童はただ目を丸くして、庭先に咲き匂ふ梅の花を見つめておりぬ――いとけなき姿の愛らしさに、清涼院の胸中は、またたく間にやわらぎにけり。
清涼院は、そっと梅の手を取りて、庭の縁に導き給ふ。薄紅に匂ふ花のもと、静かに座を共にして、やがて並びし二つの影は、春の光にやわらかくとけゆきぬ。
風かすかに吹き抜けて、枝の先より花びらひとひら、ふと舞ひ落ちるさまを、清涼院はただ黙して見つめたまひき。
その御瞳の奥、うつろう想ひは誰にも知れぬものながら、隣にある命の温もりに、微かなる安らぎを覚えたるやうにて候ふ。
「まるで、私の子どものように思えてなりません。」
清涼院の仰せに、梅はふと面持ちを曇らせ、目を丸くしぬ。
思いもかけぬ言の葉に、胸の内、かすかに波立ちて、やがて小首をかしげ、声細くたずねたり。
「清にはお子がおられるのか」
その様子、恥じらひともあらはに、まことあどけなさの中にふと大人びた影さし、見し人の心をそっと揺らしぬ。
「いえ、私にはご縁がなかったようでして、みな私よりも先に空へ旅立ってしまいました…。 それででしょうか、夫もきっと、私の育て方が悪かったのだと、あきれたような顔をしていたのです。」
そのことの葉を耳にして、梅はしばし、物も言はず、うつむきたるままに候ふ。
胸のうち、言ひ知れぬもの寂しさに満たされて、春の風さへ遠く冷やかに思ひけり。
微かに結んだ唇の奥に、問いかけも涙もとどまれど、誰にも洩らすことなく、ただ一輪の花のごとく、静かに佇みぬ。
「我は……あんなふうにされると、本当に悔しいのです。 清、あなたはそうは思わないのですか。どうして寂しくないのでしょう。我 には…我にはどうしても理解できないのです。」
童を目の前に据え、清涼院の君はその髪をそっと撫でながら、やさしき声音にて言の葉を交わし給う。されど、ふと指先が止まり、まなざしが遠くの空に向かいぬ。
夜風は静かに桜を揺らし、花びらのひとひら、君の肩に落ちたり。
そのとき、清涼院の君は、ほととぎすの鳴く前の沈黙のごとき間をおき、細く息をつきて、誰に問うでもなく、ただ胸の奥より漏れるがままに、こう呟き給うた。
「…それでも、彼を愛していますの。」
その声音は、まことに細く、されど確かな響きを伴い、草木も耳を澄ますかのごとき静けさの中に消え入りぬ。
童は、君の手を小さく握り返し、意味を知るや否やにかかわらず、そのぬくもりを伝えんとするように寄り添いぬ。
花の影、月の光、まるで母と子を包む夜の気配は、儚くも確かなる想いの深さを映し出していたり。