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暮れなずむ空の下、薄明かりの廊に佇みし清涼院の君が歩みを返さんとするその折 部屋の前に、ひとり佇む人影ありぬ。衣の色はあわき花のごとく、ただ静かにその場に立ち給いて、声もなく君の帰りを待ち受けていたり。その人こそ、苑子の君にておわした。滅多には出会わぬ気配にふと気づきし清涼院の君、面に驚きの色を浮かべながら、急ぎ口を開き給う。
「苑子の君…何ゆえ、ここに。どうぞ中へお入りなされませ。」
その言の葉、まことに丁寧にして案じたる気配を帯びておりき。されど苑子の君は、首をゆるく振り給い、穏やかながらも確かな声音にて申されぬ。
「いいえ、このままでよろしゅうございます。」
その言葉には、拒むというよりも、心を決し給うた人の静けさ宿りぬ。夜風に揺れる灯明のもと、ふたりはただ廊を隔てて向かい合い、言の葉の間に、まだ語られぬ想いがひそかに漂い始めたり。
苑子の君のその一言、やわらかくも、決して動かぬ石のごとく凛とした響きを帯びぬ。廊の灯の影にその面差しかすみ、まなざしには戸惑いも怒りもなく、ただ静けさのみが宿れり。
清涼院の君は、戸口に立ち尽くし、片袖を胸もとに添え給うたまま、しばしその表情を見やりぬ。気まずさを覆い隠そうと笑みを湛えんとすれど、それすら無為なることと知り、ただ静かに声を落とし給う。
「それでは…ここにて、何をお話し遊ばされるおつもりにて…」
苑子の君はわずかに目を伏せ、そしてまた顔を上げ給う。その様子、まるで幾年の想いをひとときに押しとどめんとするかのような面持ちなり。
「ただ…わたくし、ひとつ確かめたきことがございます。」
「――兼正さまを、今もお慕いにておわしますか。」
風の音すら止みたるかのような沈黙。咲き終えし花が地に落ちるその瞬間さながら、ふたりのあいだに張りつめたる気が流れぬ。
清涼院の君の目もとはわずかに揺れ、口許に淡き翳を浮かべ給うた。
されどすぐには応えず、手のひらをそっと胸に当て、目を閉じたるその姿は、答えより深く想いを湛えし、ひとりの女の面影そのものでありき。 苑子の君の問いは、あまりに静かにして鋭く、まるで夜の帳を裂く細き刃のごとくでありき。廊にそよぐ風さえも凍るかのように、ふたりの間に重々しき沈黙が流れぬ。
清涼院の君は目を伏せたまま、かすかに指先を組み、やがてそっと息を吐き給う。顔を上げしその瞳は、どこか遠くの景色を映すような淡き色を帯びていたり。
「忘れようとしたことは、幾度もございました。」
と、声細やかに、ひとつひとつ言葉を選びつつ語り給う。
「それでも、ふとした折に、あの人の声が、まなざしが今なお、胸の奥に揺れます…この身の愚かさよと、幾度思うたことでしょう。」
苑子の君は、その言葉をじっと聞き給い、やがてそっと目を閉じたり。何かをこらえるようにも見えたその面差しは、月影に照らされてなお、やわらかながらも固き決意の色を宿しておりき。
「――よく、わかりました。」
ただその一言にて、苑子の君は身じろぎもせず、静かに背を正し、清涼院には背中を向けていた。その背には、言の葉に託しきれぬ想いの余韻が、幽かに揺れていた。
苑子の君は、清涼院の君の言葉を最後まで聞き終えたのち、ふと身を翻し、灯の揺れる廊のかなたに向けて静かに背を向け給う。
その背中には、さながら夜風にたなびく花の如く、気高き静けさと、揺らぎぬ心の陰影とが重ねられていたり。
やがて、ゆるやかなる調子にて、しかしどこかに鋭き光を湛えたる声音をもって、苑子の君は言い放ち給う。
「…けれども、あの方が夜毎の夢に見るものが、誰であるかは、わたくしの方がよく存じておりますの。」
言の葉はやわらかくも、そっと胸に棘を差し込むがごとく、どこか誇らしげに響きけり。その声音、あからさまなる嘲りにあらず、されど確かに、自らの記憶に宿る優越の灯をそっとかかげるような、そんな余韻を残しぬ。
「あなたは、あの方の何をご存じなのでしょうか。あの方は犬がお好きだとおっしゃっていましたけれど、実は猫のほうをたいそう可愛がっていらっしゃるとか。」
清涼院の君はただ無言にてその背を見つめ、胸の奥に微かなる波の寄せ来るを感じ給う。燈火の下、ふたりを隔てるのは空間にあらず、想い出と執念、そして言の葉に託しきれぬ幾年の情にてありけり。
苑子の問いに応えしのち、清涼院の君はしばし沈黙し給うた。やがて、胸もとにそっと手をあて、目を伏せ給う。その面差しは憂いを帯び、言の葉の一つひとつが、心の奥より掬い上げられたるものであること、まざまざと伝わりぬ。
「いつだったか、そのお声がとても優しくて、誰に対しても分け隔てなく、柔らかく、そして逞しく、実に勇ましいご様子でした。その姿が今も心に深く残っています。」
その声は、風に揺れる鈴の音のように儚く、小さき震えを孕んでいたり。
その姿を見し苑子の君、ふと瞳を細め給いぬ。まなざしの奥に、わずかなる驚きと、それに続く複雑なる影が射し入り、その面には次第に翳りがさしぬ。
何かに気づきたる気色にて、苑子の君は一歩、そっと後ずさりしのち、顔をそらし給う。やがて、言の葉も軽く、されど確かなる調子にて告げたまう。
「――あら。清涼院さま、義房殿がお探しのようにてございますよ。」
その声音にはほほえみを含むれど、どこか意図を忍ばせたるものあり。清涼院の君は、はっと顔を上げ給い、思わず問うたまう。
「義房さまがわたくしを…?」
「ええ。あちらの渡殿の方にて、お待ちとのことにて。」
言の葉を信じ、君は小さく一礼し、足早にその場を離れ給う。背を向けてゆくその姿を、苑子の君は静かに見送られたり。まなざしの奥には、言の葉には現れぬ思いが、静かに、けれど深く、沈みゆく波のように漂いぬ。
苑子の君の言葉を受け、清涼院の君は目を伏せつつひとつ頷き、裾をたたみておぼつかぬ足取りながらも、義房の名に導かれるまま、渡殿の方へと歩みを進め給うた。
廊の灯はゆらぎ、君の後ろ姿はその光のなかに溶け入り、やがて薄闇に包まれぬ。
しばしその場に留まりし苑子の君は、沈黙のうちにまなざしを伏せ、やがて何事かを呟くようにして、そっと口元を結びぬ。
「けれど、そんなことさえも、私は本当には知らなかったわ」
そして音もなく一歩を踏み出し、静かに清涼院の君の後を追い給う。
衣擦れの音は細く、されど決して途切れることなく続き、ふたりの姿は、やがて同じ廊の曲がり角に消えゆきぬ。
その足取りには迷いも急きもなく、ただ静かに、されど確かな意志を帯びていたり。花の香の残る宵の風が、ただふたりをやわらかに包みしのみ。