テラーノベル
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似たようなドアの前をいくつか通り、私たちは自分たちの部屋に戻った。
私がソファに腰を下ろしたのを見て、理玖はすぐに部屋を出て行った。しばらくして戻ってきたその手には、何本かのお絞りがあった。
「冷えたやつ、もらって来た」
「え、大丈夫だったのに」
「うん。でも、結構赤くなってたから。指の痕も見えたし。冷やせば少しはいいかと思うから、これ」
理玖は甲斐甲斐しく周りのビニールをはぎ取り、私の手にお絞りを乗せた。
「ありがとう」
素直に礼を言って受け取り、お絞りを頬に当てた。ひんやりとして気持ちがいい。熱を持っていた頬が徐々に鎮まっていくのが分かる。それに合わせて、りらに会った時からずっとざわざわと昂っていた心も落ち着きを取り戻していく。
理玖が大きなため息をついた。
「まさか高見と出くわすなんて……。別の店にすればよかった。それにしたって、あいつ、まど香さんを叩くなんて許せない」
ぎりっと奥歯を噛みしめる音が聞こえそうなほど、その表情は険しい。
「私はもう大丈夫。だけど彼女の方は大丈夫かしら」
理玖は呆れたような目で私を見た。
「まど香さんって、結構お人好しだよね。自分を叩いた相手を心配するなんてさ」
「だって、あんなになるほど理玖君のことが好きなんだなって思ったら、なんだか切なくて」
「俺にとってはだいぶ迷惑だったけどね。まど香さんのことを傷つけたし」
言っているうちに理玖の眉間にしわは、いっそう深くなる。
この話はもう終わりにした方がいいと、私は口調を改めた。
「とにかく、彼女と学校で顔を合わせても、絶対に責めたりしないでね」
「自信ない」
私はお絞りをテーブルの上に置き、彼の頬に手を伸ばして撫でた。
「ねぇ、そんなに怖い顔しないで。せっかくの美少年が台無しよ。私がもういいって言ってるんだから、この話はもう終わり。さっきも言ったけど、彼女を責めるようなことを言ったり、したりするのもだめだからね」
「まど香さんがそう言うなら……」
怒りをまだくすぶらせながらも、理玖は渋々と頷いた。それからぽつんとつぶやく。
「でもさ、もともとは俺が原因で、まど香さんを巻き込んだみたいになったんだよな。ごめんね、嫌な思いや痛い思いさせて」
「理玖君のせいじゃないよ。それに、この話はもう終わりって言ったばかりよ。今日はせっかくのデートなんだから、あとは楽しもう?時間、無駄にしちゃった分、少し延長する?」
私は彼の気分をもっと和らげようと明るい声で言いながら、自分の前にタッチパネルを引き寄せた。画面をのぞき込んでいると、理玖の腕が体に巻き付いてきた。
「どうしたの?」
理玖は私の肩に頬をすり寄せる。
「いや、今のでちょっと思ってさ。春からは、まど香さんに何かあっても、その何かにすぐに気づいてあげたり、傍にいてあげたりすることが、できなくなるんだよね。そう思うと、俺の傍から離したくないなって……」
S市に行くことはもう決定事項だが、そんな風に言われると寂しさに胸が詰まりそうになる。けれどそんな顔は見せられない。私は悪戯っぽく笑う。
「でも、一年たったら私の近くまで来てくれるんでしょ?」
「そのつもりだよ」
理玖は顔を上げて、にっと笑う。
「だから、待ってて」
「えぇ。理玖君がT大学に合格してS市に来るのを楽しみに待ってるわ」
理玖の手が叩かれた方の私の頬にそっと触れた。
「痛みはどう?少しは引いた?」
「えぇ、本当にもう大丈夫よ」
「良かった」
ほっとした顔で言い、理玖は叩かれた方とは逆の頬に口づけた。
「り、理玖君、ここ、カラオケボックスよ……」
「うん。分かってる。でも、俺が言ったこと覚えてる?」
「言ったこと?」
「うん。誕生日プレゼントはまど香さん、って言ったでしょ」
そう言えば、誕生日デートの話になった時、そのようなことを言われたと思い出し、胸がどきどきし始める。
「で、でもほら、もうプレゼントはあげたじゃない。ほしがってた天体写真の本」
「うん、でもまど香さんもほしいんだ。だって、今日は俺の誕生日を祝ってくれるデートでもあるでしょ?」
目を泳がせる私に彼は甘く囁く。
「まど香さん、好きだよ。今日は半分だけ、あなたを俺にちょうだい」
「半分って、何……」
最後まで言い切るよりも前に、理玖に唇を塞がれた。優しい口づけに溶けそうになったのはあっという間で、うっとりしながら目を閉じた。そのうちに唇が首筋を伝い降りて行くのを感じる。吸うような口づけの合間に舌が這い、その感触にぞくりとした気持ち良さを感じては、こらえきれずに吐息を洩らす。
理玖は私の背に腕を回し、再び私の唇を柔らかく塞いだ。
彼とはもう何度もキスをしているのに、そのキスはこれまでで一番頭の芯までをも痺れさせた。気づいた時にはキスの熱さに飲み込まれ、全身が火照り出していた。その先がほしくてたまらなくなり、もどかしさに彼の首に腕を回す。
理玖のキスは私の反応に合わせるようにさらに深くなっていく。
もっとキスしてほしい――。
欲望が募り、そう思った時、体がソファの上に倒された。
私の上に覆いかぶさった理玖は、その手を私のスカートの中に潜り込ませる。
ゆっくりと探るような手の動きに、それまでぎゅっと閉じていた脚から力が抜けていった。しかし、内腿を撫でられた時になって、ようやく私は我に返った。これ以上進んではいけないと俄かに冷静になり、彼の手を押しとどめる。
私の抵抗に、理玖もまた理性を取り戻したらしい。手を止めて唇を離し、のろのろと起き上がった。彼の手を借りて起き上がった私を抱き寄せて、長々と息を吐き出した。
「ごめん。半分って言いながら、全部ほしくなるところだった」
照れ臭そうに言ったが、すぐに拗ねたような口調で言い訳を口にする。
「でもやっぱりさ、すぐ傍に好きな人がいるんだ。途中までで我慢しろっていうのは無理があるよね」
一人納得したような顔をしている理玖の隣で、私は上気した顔を持て余す。お絞りを手に取り、まだ残る冷たさで顔を冷やしながら苦笑する。
「でもここ、そういう場所じゃないわよ」
「分かってるけど、しょうがないじゃないか。まど香さんが可愛すぎるんだから。次は残りの全部をもらうから、そのつもりでいてね」
「の、残りって何よ……」
「決まってるでしょ。最後まで、っていう意味だよ」
「そ、そういうのは、まだまだ先じゃないかな」
「まだまだって、どれくらい?」
「え?えぇと、十八才になってから、とか?」
理玖が吹き出す。
「それまでは待てってこと?しょうがないなぁ。だけど他ならぬまど香さんのお願いだから、言うこと聞いてあげる。だからせめて」
理玖は私に腕を伸ばした。
「キスはいいよね?もらえなかった残りの半分は、あなたのキスで我慢するよ」
艶やかな瞳で誘うように見つめられたら、拒否できるわけがない。その腕の中に自ら収まった私は顔を仰向かせて、理玖のキスを受け止めた。
結局、カラオケボックスにいながら、私たちが歌った曲はゼロだった。時間の大部分が、会話と理玖のキス攻めで終わってしまった。
一曲くらい歌えば良かったと後悔しながらカラオケボックスを出た後は、夕食を取るためにファミレスに入った。
席に着いて注文を終えてから、私はバッグの中から手のひらサイズの小さなカードを取り出した。それを理玖に差し出す。
「これ、良かったら受け取って」
「何?」
彼は不思議そうな顔でカードを受け取った。その上にさっと目を走らせた後、ぱっと顔を上げて私を見た。
「これってもしかして」
「私の引っ越し先の住所」
「教えてくれるの?」
「もちろんよ。だって理玖君は私の彼氏でしょ」
言ってから急に恥ずかしくなり、顔が熱くなる。
「どうして赤くなってるの?」
「理玖君本人に向かって『彼氏』って言ったの、たぶん初めてだから。なんだか照れてしまって」
理玖の顔が嬉しそうに綻ぶ。
「まど香さんが俺のことを、ちゃんと彼氏だと思ってくれてることが分かって、なんか安心した」
「え?私、何か不安にさせてた?」
「不安っていうか……。やっぱり俺じゃ頼りにならないって、俺と付き合っていることを後悔したりしてないかな、って思うこともあった」
「そんなことないのに。今じゃ、年上だとか年下だとか、あんなに気にしていたことが嘘みたいに、理玖君のこと頼りにしてるのよ」
「それがほんとなら嬉しいな」
嬉しそうに、けれど照れたように彼は笑う。
「絶対に遊び行くよ」
「えぇ。絶対ね」
テーブルの上でこっそり指を絡ませ合いながら、私たちは笑い合った。
「さてと。そろそろ帰らないとね」
「そうね……」
理玖の言葉に頷いたものの、まだ帰りたくない、もう少しだけでいいから一緒にいたいと思う。
その気持ちが顔に出てしまったのか、それとも理玖も同じように思ってくれたのか、彼は言う。
「まど香さんの家まで送らせてほしい。ぎりぎりまで一緒にいたいんだ」
そうすれば、理玖といられる時間が伸びる。けれど私の家と彼の家は逆方向の位置だと思うと、頷くのがためらわれた。
「まど香さんは、もうここで俺とさよならしたい?」
「うぅん、もう少し一緒にいたい」
「なら、これは妥協案ってやつだから、いいよね?あんまり遅くまで引き留めるわけにはいかないからね」
理玖はにっと笑い、私の返事を待っている。
「それじゃあ、お願いしようかな」
「よし、そうと決まれば、店、出ようか」
帰り支度のために荷物をまとめている時、ふと弟の顔が頭に浮かんだ。今夜はアルバイトか何かで帰りが遅いと言っていた。だから出くわすことはないだろうと思いながら、私は先に立つ理玖の後を追った。
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