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観客は、幕間でお咲と共に大合唱した為、昼の食事にありつけなかったと、慌てて弁当を広げている。
皆、食べることに夢中で舞台で繰り広げられている演奏になど耳を傾けるどころかだった。
それでも、演者の戸田は、淡々と自分の役目を果たしている。
曲はドビュッシーのアラベスク。
耳障りの良い静かな調べだが、難易度はなかなか高い。
旋律に派手さはないが、計算された音の繋がりと叙情的な調べは、食事に合わせるには、うってつけなのか、はたまた、大合唱の後だからなのか、観客は食べることに集中していた。
が、ここで戸田が聞かせる。
軽やかに指を動かし、鍵盤を連打し始める。
ピアノの音が観客の耳に流れ込む。モゴモゴと口を動かしながらも、一人二人と舞台へ注目し始めた。
「よし、戸田!やったな!」
中村が、余裕綽々でピアノを引き続ける戸田の後ろ姿に、ニンマリしている。
これで、発表会の雰囲気を取り戻したと岩崎も満足げだ。
どうにかこうにか、本来の姿になりそうだと安堵した所へ、ぐうーと腹の虫が鳴いてくれる。
お咲が、恥ずかしそうに俯いていた。
「ああ、お咲。昼がまだだったな。義姉上。もうその辺にして、桟敷席へお戻りください。義姉上もお食事を摂られた方がよろしいでしょう」
芳子に、あんパンをよこせと噛みつかれていた支配人が、大袈裟な身ぶり手振りで、桟敷席へ案内すると岩崎の言葉に乗っかった。
「男爵夫人、のちほどあんパンをお持ちいたしますので……」
揉み手で、作り笑いを浮かべる支配人は、裏方の男へ芳子を桟敷席へ案内するように言い付けた。舞台裏から、桟敷席への昇り口へ繋がる通路があるらしい。
芳子は広がるドレスの両脇を持ち上げる。
それを見たお咲が、後ろへ周りドレスの裾を持った。
「ありがとう。お咲ちゃん。こうも裾が広がっていると歩きにくいのよー」
朗らかに言いつつ、芳子はお咲と共に去った。あんパンを桟敷席へ持って来るよう支配人にしっかり告げて……。
そして、舞台では、戸田が流麗な和音を奏でていた。
曲も中盤にさしかかり、劇場内は、溢れ出てくるかのようなピアノの音に聞き入っている。
鍵盤をつま弾くかのごとく戸田の指が動き、そして、そのまま止まった。
ゆっくりと立ち上がり、深く礼をする演者の戸田に、皆、一瞬息を飲んだ。
大きな拍手がすぐに沸き起こる。
わああ!と、観客は弾けきり、舞台へ、座布団やら、買っていたせんべいやら、諸々の物を投げ出し興奮状態になっていく。
飛んで来るものを上手く避けながら幕裾に下がった戸田は、これまた、余裕の笑みか、苦笑っている。
「良かったよ。戸田君」
「あ、ありがとうございます。岩崎先生!」
戸田は、岩崎に誉められたと嬉しそうに顔をほころばせて頭を下げた。
「さすが、ピアノ科の、いや学年の主席だよ!一気に雰囲気を変えやがって、やっぱ、戸田のもんだな。おれは、だめだわ」
どこか寂しげに、だが、誇らしげに、中村が戸田を褒め称えた。
その言葉通り、次の発表者、男子学生の独唱にも観客は、目を輝かせながら聞き入って、たいしたもんだと、唸っている。
「ほんと、たいしたもんなんだけどねぇー、もうちょいと、響いてくれねぇかなぁーさっきの、にぎにぎーとか、言うヤツみたいにさぁー」
不満そうに口を尖らせて、二代目がいきなり現れた。
「あっ!中村のにいさん!他の学生さんと交代したんだ。サボってるんじゃーないぜ?」
ふふんと鼻を鳴らしつつ、二代目は、言われた通りに、外で、玲子達不参加表明している学生達が来るかもしれないと、様子を見ていたと言った。
「まっ、俺には、あんまり関係ない話だからって言っても、人手不足ってのは重々わかるから協力したよっ!ついでに、こっちも儲けさせてもらいましたけど」
言うと、ふふふと二代目は一人にやける。
玲子達が現れるかもと、待っている間、通りを行く人々へ声をかけたのだとか。要は、劇場への客寄せを行ったのだ。
丁度、にぎにぎ、おに太郎と大合唱が始まって、それは、外にまで響いて来た。
「いやー、我も我もと、こっちは大賑わい!儲けさせてもらったよぉー!って言うか、おっと!支配人!分け前誤魔化すんじゃねぇーぞ!」
二代目が支配人に凄み、支配人も、はいはいと返事をしていた。
「そういえば、立ち見客が増えているような?!」
そっと、舞台裏から顔を覗かせ、升席を覗き見た中村が呆れている。
「だから、今唄っている学生さんも、もっと、声張り上げて外まで聞こえる様にしてもらえないかねぇ」
「二代目、結局、金かよっ!」
「中村のにいさん!いくら場末の劇場だからって、これだけ準備するのに、いくらかかっているとおもってんだい?!元は、取らせてもらわないとねぇ」
二代目の頭の中は、儲けることしかないようだった。
「……客引きですか。まあ、そうなるのも分かりますが……つまりは、岩崎先生。これ以上待っても、一ノ瀬君達はあらわれないのでは……」
戸田が、二代目の調子よさから読み取って、起こりうることを岩崎へ進言する。
戸田の言葉がなくても、ここにいる者は、薄々分かっていた。
玲子は、おそらく、あらわれない。
そして、玲子が演奏する番には穴が開く。それも、演奏会最後のトリとなる部分、一番の見せ場に……。
岩崎は、顔を強ばらせながら、
「まだ、時間はある。最後まで、時間はある……。待ってみようじゃないか。引き続き、表に立って一ノ瀬君達を待ってみてくれ」
と、少しの望みに賭ける。
岩崎の気持ち、指導者としての責任や思いが、分からなくもない戸田が、困りながらも小さく、はい、と返事をした。