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何気ない、ごくありふれた日常の光景
いつもと変わらない、温かくて安心できるはずのその風景が
今日はどうしようもなく遠く、手の届かない場所にあるように感じられた。
まるで、自分だけが、ガラス一枚隔てた向こう側にいるような。
俺は一瞬だけ視線を泳がせて、すぐに無理やり笑みを作った。
喉の奥がひりつくような感覚を覚える。
「……あっ、うん。実はちょっと、体調悪くなっちゃって早退して来たんだ」
なるべく自然に、平静を装いながら言葉を紡ぎ出す。
口角を無理に引き上げる感覚だけが、唯一の頼りだった。
だが、咄嗟に作ったその笑顔は、意外なほど自然に見えたらしい。
母さんの、これ以上心配を増やしたくはない。
このくらいの小さな嘘なら、きっと許されるはずだと自分に言い聞かせた。
母さんは特に疑う様子もなく、俺の顔をじっと見つめてから、少し呆れたような口調で言った。
「また夜遅くまでゲームしてたんでしょ、もう。まだ夕飯までは時間あるから、今のうちに休んできなさい」
その言葉には、俺の体調を気遣う優しさが滲んでいた。
それがまた、胸に突き刺さる。
本当のことを言えない罪悪感と、心配させていることへの申し訳なさで
俺の心はきつく締め付けられた。
何も言えず、ただ「うん」とだけ小さく頷いて自室へと逃げ込むように向かった。
自室のドアを閉めた瞬間
世界の色が、音が一変する。
家の中にいるはずなのに、まるで誰もいない
広大な空間にたった一人で放り出されたような感覚に襲われた。
静かで、冷たくて、そしてどうしようもないほどの孤独。
制服のままで、重たい体をベッドに倒れ込ませる。
敷布団の柔らかさが、かえって彼の無力さを
そして逃げ場のない現実を突きつけてきた。
仰向けになって天井を見上げても、涙を堪えても、どこにも逃げ場は見つからない。
目を閉じても、開けても、頭の中ではあの時の声が、情け容赦なくリフレインする。
顔を伏せたまま、何も考えたくなかった。
圭ちゃんのことも、花音たちの憎悪に満ちた目も、前田の嘲笑も、何もかも。
全部、頭の中から無理やり押し出して、ただ無に溶けて消えてしまいたかった。
でも、そう願えば願うほど
消そうとしても消えない声が、また脳の奥底で囁きかけてくる。
『前田に聞いたら中一の頃からホモだったって。そのときから私の圭も誑かしてたんだよね』
『圭は優しいから、あんたに情けかけてるだけなの。』
『それを勘違いされちゃ、圭くんも迷惑なんだって気付けよ』
(圭ちゃんは——本当は迷惑なのかな)
あんな、あんなにも攻撃的な言葉を浴びせられなくたっていいのに。
俺が……圭ちゃんのそばにいたこと、そんなにもいけないことだったのだろうか。
俺の存在が、全て彼にとって「迷惑」という感情に過ぎなかったとしたら。
その事実は、彼の心の奥底を深く抉った。
…ほんとに、全部、終わらせなきゃいけないのかな。
この関係も、この気持ちも、全部。
枕に顔を押しつけ、声を殺すように吐き出した息が、じんわりと敷布団を湿らせて広がる。
体中に広がる、鉛のような重苦しさ。
(……しんどい)
そう思ってしまった瞬間
胸の奥で、何かが静かに、音もなく崩れ落ちていく感覚があった。
涙はもう、出ない。
さっき学校で、もうこれ以上出ないというほど、全部出し切ってしまったから。
泣き疲れて、心の奥だけは乾ききっていた。
ひどく、冷たく、乾いて。
誰にも言えない。
この苦しみを、誰にも見せることはできない。
そんな重苦しい秘密が、どんどん身体の奥底に沈んでいく。
制服も脱がず、靴下も履いたまま、ベッドの端にうずくまる。
誰もいない、自分だけの部屋で。
俺はただ静かに、息を潜めて、自分を隠し続けていた。
ずっと隠してばかりで、情けない。
「ゲイだからって、何?」
「異性愛者が前提で話さないで欲しい」
「男が男を好きになったらダメなの?犯罪か?」
「こっちは真剣なのに、|そっち《異性愛者》の恋愛観で俺の恋を否定しないでくれ」
心のどこかで、そう叫んでいるのに
声にはならない。
喉がひどく乾いて、音一つ出せない。
だって、言いたいことなんて隠してた方が、人生は上手く進んでいくのだと
これまでの経験が教えていた。
他者の冷たい視線も、圭ちゃんの優しさも、母さんの心配そうな声も
全部が頭の中でぐるぐると渦を巻いて、彼の意識から離れようとしない。
その全てが、彼自身を責める材料にしかならなかった。
——明日が来なければいいのに。
明日が来なければ、無理に笑う必要も無い。
笑顔の仮面を被って、何事もなかったかのように振る舞う必要もない。
それに、圭ちゃんは鈍感そうに見えて、実は勘が鋭い。
俺が一人で悩んでいれば、きっと頬を引っ張ってでも「聞かせろ」と、全てを聞き出そうとしてくるだろう。
そんな圭ちゃんの顔を想像して、俺はさらに憂鬱な気持ちに沈んでいった。
そのときだった。
ベッドの中で微動だにせずにいた俺の耳に、不意に小さな電子音が届いた。
――LINEの通知音
部屋の片隅、机の上に投げ出したままのスマホが
弱々しい震えを伴って、青白く光っているのが見える。
(……誰?)
重たい身体をほんの少しだけ起こして、手を伸ばした。
ずっしりと重く感じるスマホを手に取ると、画面には「圭」の名前が、はっきりと表示されていた。
胸が、一瞬だけぎゅっと縮こまる。
心臓が、耳元で激しく脈打つ。
『お前早退したらしーけどどした、珍しいじゃん』
……ああ、やっぱり気づいたんだ、圭ちゃん。
いつも通りの砕けた、気安い口調なのに
たった一文の中に、彼のわずかな心配が滲んでいるのが分かった。
たった一行のテキストなのに、まるで圭ちゃんの声が聞こえた気がした。
あの、やわらかくて、だけどズルいくらいに鋭い声が——
直接、頭の奥に染み込んでくる。
(……どうしよう)
指が、勝手に圭ちゃんとのトーク画面を開こうとして、ぴたりと止まった。
「どした」って、……言えない。
何があったのか、なんて言えるわけがない。
だってそこには、絵文字も「!」も「?」も、何も無いのに、圭ちゃんの気遣いが確かに滲み出ていたから。
いつもなら、こんなLINEが来たら、嬉しくてすぐにでも返事をしていたはずなのに。
今は、指が動かない。
スマホの画面を見つめたまま、思考が止まったみたいに固まっていた。
(どうして……)
心配してくれるのが、怖い。
圭ちゃんの優しさを向けられるのが、怖い。
この優しい気遣いに「大丈夫」って嘘をつくのが、ひどくつらい。
かといって本当のことを言えるほど、今の自分を支える言葉が、どこにも見つからない。
(返せない……)
たった一言、「平気」と送るだけなのに
それすらできない。
送った瞬間、その嘘の薄っぺらさに、自分が耐えられなくなる気がして。
もし、明日も今日と同じような暗い顔で登校したら
圭ちゃんはきっと何があったか、全部聞こうとしてくるだろう。
そのとき俺は……ちゃんと話せるだろうか。
逃げずに、圭ちゃんの目を見て向き合えるだろうか。
圭ちゃんの澄んだ瞳を見て、自分の想いを
この心に負った深い傷を、口にできるだろうか。
(……いや、できない。今の俺には無理だ)
また、ぐるぐると考えが渦を巻き始める。
混乱と絶望の波が、次々と押し寄せる。
『圭くんも迷惑なんだって気付けよ』
あの声が、再び胸の奥にこだまする。
圭ちゃんが心配してくれることまで、自分の抱える不安で濁してしまうのが怖かった。
俺がこのまま返信を返さなければ、圭ちゃんは
「なんだよ、寝てた?」くらいに思って済ませてくれるかもしれない。
明日、ちょっと体調悪かったって笑ってみせれば、それでなんとか……。
(……逃げてるだけだ)
分かってる。
分かってるのに、指はLINEの画面をそっと閉じて、スリープにしてしまった。
たったそれだけの動作が、鉛のように重く
心の中にどす黒く沈んでいく。
またひとつ、圭ちゃんから遠ざかった気がして、彼の背中はひどく寒かった。
スマホをベッドの端に戻し、彼は再び布団の中に深く潜り込む。
顔を隠して、耳を塞いで、この世界の全ての音から逃げたくなった。
(……圭ちゃん、ごめん)
言葉にはできない謝罪が、喉の奥で詰まったまま
彼の細い息に紛れて、虚しく消えていった。
(なんかもう、消えたいな)
…そう思ったのは、これが初めてじゃなかった。
記憶の底を辿れば、3年ぶりだろうか。
中学2年生のとき、圭ちゃんに恋したと自覚した瞬間も、ひどく死にたく、この世界から消えてしまいたいと願ったのを鮮明に覚えている。
なんで自分はまた男友達を好きになっているんだって。
なんでみんなが言うような「普通の恋」ができないんだろうって。
あのときも、誰にも打ち明けられずに、一人で抱え込んで、泣きながら布団に潜っていた。
「好きになっちゃダメだったのに」って、何度も何度も、心の底からそう思った。
でも、圭ちゃんは何も知らないまま
変わらず隣にいてくれて、俺のことを普通に
「友達」として大事にしてくれた。
それが余計に、俺の心を苦しめた。
嬉しくて、泣きたくなるほど優しくて。
でも同時に
「この気持ちを知られたら、きっと全てが壊れる」
という、根深い恐怖も常に付きまとってきた。
だから俺は「ただの友達」でい続けるための必死の演技を始めた。
自分の本当の気持ちを、心の奥底へと押し込んだ。
押し込んで、蓋をして、そして決して開かないように鍵をかけて。
それでも時々、溢れそうになる気持ちを
笑いながらごまかし、冗談にして、必死に逃げてきた。
……ずっと、そうやって生きてきた。
本当のことを言わなければ、誰も傷つけずに済むと思っていた。
いいや、違う。
本当は、自分が傷つかずに済むと思ったからだ。
でも、そのせいで今の俺は
一番信頼してるはずの家族にさえ、何も伝えられないまま——
ひとりきりで、部屋の隅に蹲っている。
(……全部、恋なんかした俺が悪いんだ)
そう思った瞬間、胸の奥に冷たい水が落ちてくる。
ごぼごぼと音を立てて、心の底へと濁った水が沈んでいく。
誰にも嫌われたくない。
ただ、それだけだったはずなのに。
それさえも、きっと間違っていたのだろうか。
「大丈夫」って顔して、何も言わないで笑ってれば、全部うまくいく気がしていた。
でも、それで守れてたのは、他人の顔色だけで。
一番大切なはずの、自分自身はどんどん壊れていった。
今、圭ちゃんにゲイバレに加えて好きバレまでして、それで引かれてないどころか
試しで付き合ってみるか、とまで言われたのは本当に驚いたし
一瞬は天に舞い上がるような気持ちになった。
けれど、それこそが自分の不純な気持ちが招いたことなのかもしれないと、ふと頭をよぎる。
圭ちゃんの優しさに甘えて、その言葉に飛びついてしまった自分が、ひどく汚く感じられた。
(……もう、どうしたらいいのか分かんないや)
枕に顔を押しつけたまま
俺はぼんやりと天井を見つめる。
頭の中は、真っ白な虚無と
どす黒い自己嫌悪でいっぱいだった。
時計の秒針の音が、やけに大きく響いて
耳の奥で弾けた。
その音が、孤独を際立たせるようだった。