テラーノベル
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「なるほど……。温泉宿に書庫か、それはいいな」
荷物整理を一段落させ、俺たちは連れ立ってその場所へ向かった。
老舗旅館ならではの、年月を重ねた木の香りと静謐な空気が漂う廊下を進む。
案内に従って扉を開くと、そこにはそれまでの伝統的な和の趣とは一線を画す、モダンで洗練された空間が姿を現した。
入り口の暖簾をくぐれば、天井まで届かんばかりの壁一面を埋め尽くす本棚。
そして、使い込まれた風合いが美しい革張りのソファが並んでいる。
大きな窓から差し込む柔らかな光が、空中に静かに舞う微細な塵を黄金色に照らし
まるでここだけ時間の流れが特殊なフィルターを通したように緩やかになったかのような錯覚を覚える。
「へぇ……これはすごいな。想像以上だ」
尊さんが感嘆の声を漏らし、ゆっくりと歩を進めながら、棚に並ぶ背表紙の列に鋭くも熱心な目を走らせる。
「Second Lobby 書ヲ読ム旅人」という名の通り、そこは単なる図書室ではなかった。
旅人が日常の喧騒を脱ぎ捨て、見知らぬ言葉と向き合い、自分自身へと立ち返るための、濃密で静かな「居場所」だった。
俺は棚の一角を指差し、周囲の静寂を壊さないよう声を落として言った。
「熱海の歴史に関する資料から、懐かしい文芸書の名著まで幅広く揃ってるみたいですね」
「詳しいな。目星をつけていたのか?」
「ふふ、旅行の計画を立てる時に色々調べてたので。ここ、絶対尊さんが気に入ると思って」
「なるほどな、お前の読み通りだ」
尊さんは少しだけ満足そうに口角を上げると、一冊の古びた装丁の短編小説集を手に取った。
頁をめくる指先から伝わってくる、物語への静かな期待感。
それが隣にいる俺の肌にもじわりと沁みてくる。
対面のソファに深く腰を下ろし、俺は地方都市を舞台にしたノンフィクションを選んだ。
ひんやりとした紙の感触を指に感じ、活字を目で追い始める。
けれど、物語に没頭しようとしても、意識の数パーセントはどうしても視界の端に映る尊さんの姿を捉え続けてしまう。
どのくらい時間が経ったのだろう。
時折、誰かがページをめくる乾いた音と、遠くで鳴く鳥の声だけが聞こえるこの空間で、俺はふと顔を上げた。
読書に耽る尊さんの横顔は、言葉を失うほどに穏やかで、そして美しかった。
仕事で見せる厳しい表情や、時折見せる年相応の難しい顔も知っているけれど
今の彼からは純粋な知性と、柔らかい優しさだけが滲み出ているように見えた。
(やっぱり俺は、尊さんのこういうところに……こういう何気ない瞬間に、ずっと惹かれているんだろうな)
不意に自覚した想いに、心臓がトクンと小さく跳ねた。
見惚れているうちに、もしふと顔を上げられて目が合ってしまったら──
そう思うと急に気恥ずかしくなり、俺は慌てて開いたままの本に視線を戻した。
文字が滑って内容は頭に入ってこないけれど
隣に彼がいるという確かな幸福感だけで、胸がいっぱいだった。
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