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#BL
#ヒューマンドラマ
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夜。縫季は王太子府の廊下を歩いていた。
月明かりが石の床を青白く照らしている。静かすぎて、自分の足音だけが余計に目立つ。
政務の間の扉の隙間から、光が漏れていた。
足が、勝手に止まった。
わずかな隙間から、中を見る。
帝辛が卓に向かって座っている。木簡の束に囲まれ、額に手を当て、目を閉じていた。普段の完成された姿から、ほんの少し剥がれた青さがある。
清朗が、その隣に立っていた。
「……明日のことを、考えている」
帝辛が静かに言った。
「祭祀のことですか」
「天が、応じなかったら」
清朗は少し間を置いた。それから、穏やかに言った。
「応じます」
「……なぜそう思える」
「殿下を、知っているからです」
帝辛が、少し笑った。王太子としての力みが、ほんの少しだけほどける。
「そうか……ありがとう、清朗」
「殿下のためなら、俺は何でもできます」
清朗の手が、帝辛の肩に置かれる。自然に。躊躇なく。それが当たり前のように。
帝辛も拒まない。むしろ、そこに身を預けている。
縫季は、自分の指を見た。あの日、碗を受け取るとき。触れそうになって、引いた。逃げ道を残したのは、自分の方だった。
清朗は違う。踏み込む。踏み込める。
その瞬間、甘い残り香が鼻を掠めた。倉庫で嗅いだものと、同じ種類の甘さ。
縫季の掌が、わずかに熱を持った。殷の線が、滲む。
数値が来る。感情ではなく、記録として。
――崩壊まで、当初の予測より十四日、早まっている。
清朗の善意が、その香の運び手になっている。帝辛は、何も知らない。
「応じます」という清朗の確信が、甘い匂いの上に成り立っていることを。
明日、天が沈黙するかもしれないことを。
縫季の中で、胸の疼きが冷えていく。感情の火に水をかけるみたいに、判断が勝った。
――この親密さが、歪の入口になる。
縫季は、静かに扉から離れた。足音を立てないように。この温度を、汚さないように。
◆
翌朝。祭壇室に続く準備の間は、静かだった。
帝辛が礼服の帯を整えている。所作に乱れはない。だが、指先に僅かな力みがある。
縫季は少し離れた場所に控えながら、その背中を見ていた。
「……今日の祭祀、ご準備は」
「ああ」
帝辛は水鏡を一度だけ見た。自分の顔を確かめるように。
「問題ない」
問題ない、と言う声に、昨夜の「天が応じなかったら」が重なった。
縫季は一拍置いてから、静かに切り出した。
「祭祀を前に、ひとつだけ。医官府を経由した物資の流れに、少し気になる点がございます。殿下のお足元に関わることゆえ、念のためお耳に入れておきたく」
「何だ」
「安堵配給の件です。配給先の記録に、不明な箇所がありまして」
帝辛の手が、一瞬だけ止まった。
「……清朗が提案してくれたものだ」
「はい。ただ、配給先の記録が」
「民の病を遠ざける備え、と聞いている。良い取り組みだと思うが」
疑いがない。清朗への信頼が、最初からそこにあるものとして。
縫季はもう一歩踏み込もうとした。
「殿下」
声がした。
清朗だった。
礼服の用意を抱え、こちらへ歩いてくる。縫季を一瞥した。冷たい、というより――測っている目だ。
「準備は私がお手伝いします」
明るい声だった。角が立たない。だから余計に硬い。
帝辛の側へ自然に寄る。縫季との間に、静かに体を入れる形で。
「縫季殿は、他にご用がおありでしょう」
言い方は丁寧だ。だが意味は一つだった。
ここは、お前の場所ではない。
帝辛が清朗を見て、小さく頷いた。
「ありがとう、清朗」
清朗が帝辛の帯を確かめ始める。手慣れた動きだ。何度も、繰り返してきた手つき。
縫季は一歩、引いた。
「……失礼します」
帝辛が縫季を見た。一瞬だけ、何かを言いかけた顔をした。
だが清朗が「殿下、袖の合わせを」と声をかける。
帝辛の視線が、そちらへ向く。
縫季は頭を下げ、準備の間を出た。
◆
廊下に出ると、香炉の白い煙が流れてきた。
祭壇の方角から。
(……急げ)
証拠が薄い。まだ、足りない。
曲がり角をひとつ抜けたところで、足が止まった。
医官府へ続く小径に、見覚えのある人影があった。清朗の配下らしい使いの男。腕の包みは布で覆われているのに、形が分かる。配給倉庫で見たものと同じだ。
男は周囲を一度だけ確かめ、医官府の門へ吸い込まれた。手にしていた札が一瞬、朝の光を返す。――清朗の印。
(やっぱり、動いてる)
胸の奥で、熱が冷えていく。祈りの形をした感情が、手順に戻っていく。
(線にする。数にする。経路にする)
縫季は踵を返した。向かう先は記録室だ。今のうちに、安堵配給の『形』を掴む。
祭壇室から、香の煙が細く上っていた。
帝辛が、今日初めて天に向かう。
(……間に合え)
縫季は歩を速めた。
春の光が廊下を照らしている。だが影は、長く、暗く伸びていた。
コメント
1件
ああ、今回も心に刺さりました……縫季が扉の外で見つめてしまう距離感、すごく切なかったです。清朗が自然に触れられるのに対して、自分は引いてしまう。その対比がもう、胸に来ますね。あと、「崩壊まで、当初の予測より十四日、早まっている」という冷たい情報が、甘い香りと一緒に流れてくるのが怖い……善意が毒を運んでいるかもしれない、という構造が本当に巧いです。縫季の「間に合え」がどうなるのか、続きが気になって仕方ないです。