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王太子府の祭壇室は、静まり返っていた。
高みから差し込む光が薄く、空気が張り詰めている。香炉の煙が、まっすぐ天へ昇っていく。風もない。音もない。
縫季は臣下たちの後列に立ち、祭壇の前に跪く帝辛の背を見ていた。
清朗が、帝辛のすぐ傍に控えている。一歩だけ後ろ。だが、何かあればすぐ動ける距離に。
祭壇の準備が整う直前、縫季は見ていた。
清朗が香炉に、小さな袋から香を足すのを。
迷いがなかった。自然な所作だった。帝辛のために、用意してきたものを、ただ静かに、足した。
(……安堵の香、か)
縫季の鼻先を、甘い残り香がかすめた。
知っている匂いだ。倉庫で嗅いだ。清朗の香袋で嗅いだ。昨夜の政務の間の扉越しでも。
だが今、その甘さは、祭壇の香に混じって、白い煙になっていた。
(……まずい)
縫季は掌を開いた。殷の線を探る。
薄い。昨日より、また薄い。
◆
帝辛の祈りが始まった。
声は低く、静かで、迷いがない。先祖の名を呼ぶ。天に問う。この国を、民を、どうか御覧ください、と。
清朗が目を伏せて、その声を聞いている。穏やかな顔だった。帝辛が楽に祈れているかを、確かめるように。
香炉の煙が、少しだけ変わった。
甘い。粘っこい。まだこの時代に存在してはならない甘さが、祭壇の煙に溶けていく。
縫季は線を辿った。
祭祀が行われるとき、天界は応じる。正史の記録層が厚ければ、応じる力も強い。祈りが天へ届き、天からの波が祭壇に返ってくる。
だが。
天は、沈黙している。
沈黙が、長い。
縫季は掌を開いたまま、祭壇の煙を見ていた。
その端に、何かが揺れた。
灯火ではない。煙でもない。影だ。
祭壇の右端、白い煙が薄れるところに、何かの輪郭が差しかけた。
九つの、尾のような。
だが次の瞬間、それは消えた。差しかけたまま、押し返されるように。
(……来られない)
縫季の胸の奥で、何かが冷えた。
甘い香に引き寄せられた。だが、この線には足場がない。弾かれた。
正史から外れた線には、天も、天界の者も、足場を見つけられない。
香炉の煙は、まだ真っ直ぐ昇っている。誰も、あの影に気づいていない。
帝辛も。清朗も。
縫季だけが、見た。
(清朗は、知らない)
知らないまま、善意で足した。帝辛の緊張を解すために。ただそれだけのために。
その善意が今、祭壇の煙に混じって、天界の経路を詰まらせている。
縫季は視線を清朗に向けた。
清朗はまだ目を伏せている。穏やかな顔で、帝辛の祈りを聞いている。
(……お前は、何も知らない)
◆
やがて、祈りが終わった。
沈黙が落ちた。
清朗が、最初に動いた。
「殿下のお祈りは、確かに天へ届いております」
声は穏やかで、明るい。
「陛下のご病気で、天の声が届きにくいのでしょう。どうか、御心を安んじてください」
他の臣下たちが続く。
「祭祀の刻が少しずれたかと存じます。明日、改めて行えば――」
「殿下の祈りに疑いはございません。天は必ず御意を示されましょう」
誰も「異常だ」とは言わない。帝辛を傷つけたくないから。そして、自分たちも信じたいから。
帝辛は静かに頷いた。
「……ありがとう」
短い言葉だった。感謝の形をしていたが、その奥に何があるか、縫季には分かってしまった。
帝辛も、気づいている。
だから礼を言う。気づいていても、気づかないふりをする。それが今の帝辛にできる、臣下への優しさだった。
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帝辛が立ち上がった。祭壇に背を向け、臣下たちの前に立つ。
その顔は、完成された王太子の顔だ。乱れがない。揺れがない。
だからこそ、縫季の胸が痛かった。
一瞬だけ、帝辛の視線が縫季を掠めた。
何も言わない。ただ、見た。
それだけだった。
縫季は頭を下げた。
(分かってる)
分かっている。でも、今は言えない。言えるだけの証拠が、まだ足りない。
臣下たちが退出していく。清朗が帝辛の隣に寄り添い、何か小声で話しかけている。
帝辛が、小さく笑った。
清朗は、まだ気づいていない。今日、自分が何をしたかを。
縫季はその背中を見ながら、掌の中で殷の線をそっと握った。
(……今夜、線にする)
安堵配給の行き先。医官府の名簿。祭壇の香炉に足された、あの甘さ。
全部、繋がっている。
コメント
1件
縫季だけがあの甘い香りに気づいて、しかもそれが天との経路を塞いでるって……。清朗の善意が裏目に出てるのが切ないし、帝辛が気づかないふりをして「ありがとう」って言うところが沁みました。あの一瞬の視線のやりとりも、縫季の胸の内を思うともう。今夜、全部を線にする決意、静かに応援してます。