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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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八月十四日 午後九時 久遠寺家家令 真柴宗介 書類受取
青黒い字は、そう読めた。
几帳面な、少し右肩の上がった、整った字。
私は、この字を知っていた。四月の家令室で、礼状の宛名を書くとき、手本にと渡された控えの字。去年の秋、大奥様から渡された、曝書目録の字。毎月、女中部屋の壁に貼られる、給金の覚え書きの字。
冬馬様は、帳面の上に手を置いたまま、動かなかった。
「宗介の字だ」
かすれた声だった。
「……私は、この字で、いろはを習った」
六つか七つのころだ、と冬馬様は言った。父上は家に寄りつかず、母上は、字の稽古など女中に任せておけばいいという人だった。書生だった宗介が、後ろから私の手を握って、筆を運んでくれた。止めは、ぐっと押さえるのです、若様。払いは、迷わずに。
冬馬様の字の、止めで筆を押さえる癖。払いの短さ。
あれは、この人から習ったものだったのだ。
座敷には、私たち二人きりだった。百合絵様とお鈴は、冬馬様に言われて、篠原さんを浜へ案内しに出ていた。
*
見返しに、会館の書記の朱書きの注意書きが貼ってあった。
御記帳ハ、備付ノ筆墨ニテ願上候。
来訪帳は、受付の机に据え置かれ、訪ねてきた者は、そこに備えた筆と硯で、時刻と名と用件を書く。名の下に、自分の認印を押す。
八月十四日の頁にも、墨の字が、縦の罫に一行ずつ、行儀よく並んでいた。どの行にも、名の下に、小さな朱の印が一つずつ。
その中で、一行だけが、万年筆の青黒いインクだった。
ルーペを、帯から抜いた。
真柴さんの行の、すぐ右。「午後八時四十分」、どこかの子爵家の執事の名。墨。朱印。
すぐ左。「午後九時二十分」、どこかの伯爵家の家扶の名。墨。朱印。
真柴さんの一行は、その二つのあいだに挟まっていた。
ほかの行が、罫と罫のあいだにゆったりと収まっているのに、この一行だけは、細い罫の線の上に、無理に押しこんだように、字の幅が詰まっている。
まるで、空いた隙間を探して、あとから差しこんだように。
ルーペを、真柴さんの名へ滑らせた。
宗介、の「介」。
狭い行幅に押しこまれた字の、最後の左払いだけが、勢い余って、左隣の行へはみ出している。その先が、伯爵家の家扶の名の下に押された朱印の縁に、かかっていた。
息を詰めて、重なったところを覗きこむ。
朱の粒の上に、青黒いインクの線が、はっきりと乗っていた。
インクの線は、朱の中に沈んでいない。朱を跨いで、その上を走っている。
「旦那様」
自分の声が、震えているのがわかった。
「叔父様の証書で、お話ししました。墨と朱が重なっているところは、後から来たものが、上に乗ります」
冬馬様は、帳面から目を上げなかった。
「この一行は、隣の行の朱印の、上に書かれています。九時二十分に来た伯爵家の方が、名を書いて、印を押した。そのあとで、誰かが、この隙間に、この一行を書き足したのです」
九時に来た人の名が、九時二十分の人の印の、後から書かれるはずがない。
その晩のうちか、翌日か、何日も後か。それは、紙にはわからない。
わかるのは、この一行が、あとから足された、ということだけだ。
そして、この一行のほかに、あの晩、真柴さんが東京にいたと示すものは、何もない。
「それに」
私は、帯から、黒軸の万年筆を出した。
金の飾り輪。一年と四か月前、嫁いで三日目の朝に、真柴さんが私にくれた万年筆。
白い便箋の端に、一本、線を引いた。
書いたときは青く。
私たちが見ている前で、線は、ゆっくりと、黒に沈んでいった。
乾いた縁にだけ、かすかな青みが残る。
来訪帳の一行と、同じ色だった。
「真柴さんは、二十年、同じ型の万年筆を使っておいでだと、仰いました。同じインクで」
筆と硯の並んだ受付の机で、一人だけ、自分の万年筆で書いた人。
墨をすって待つ間が、惜しかったのだ。人の目を盗んで、急いで書く必要があったから。
*
冬馬様の顔から、血の気が引いていった。
白いシャツの袖口の上で、手首の筋が、浮いていた。
「旦那様。ルーペを」
私が差し出したルーペを、冬馬様は、見なかった。
「……今は、いい」
冬馬様は、目を閉じた。
「君の目を、疑ったことはない。疑いたいのは、私の目のほうだ」
冬馬様は、来訪帳を、そっと閉じた。紺の布張りの表紙に、手のひらを当てる。
それきり、長いこと、何も言わなかった。
縁側の向こうで、蝉が鳴いていた。昨日と同じ声で。
「あの夜、十一時過ぎに、源造から電話が来た」
不意に、冬馬様が言った。帳面に手を当てたまま。
「帽子と上着を持ってきたのは、タキだった。宗介はどうした、と私は訊いた。タキは、家令さんはもうお休みです、と答えた。家令室の明かりが、消えていた」
冬馬様は、そこで言葉を切った。
誰も、真柴さんの部屋の襖を、開けてみたわけではなかった。
その夜、明け方に別荘へ着いた冬馬様のもとへ、真柴さんがやってきたのは、翌日の昼前だったという。朝一番の汽車で参りました、と言って。
あの晩、九時に、真柴さんは東京にいた。
そう、誰もが聞いてきた。警察も、冬馬様も、二年のあいだ。
その九時は、あとから、この帳面の隙間に、青黒いインクで書き足された九時だった。
*
その日の午後の汽車で、東京へ戻った。
来訪帳は、冬馬様の書類鞄の底に入れた。二十日に篠原さんが会館へ返しに行くまで、書斎の、鍵のかかる引き出しにしまうことになった。
発つ前に、百合絵様が、私の袖を引いた。
「お義姉さま。何か、あったのね。お兄様の顔、真っ白よ」
「百合絵様。お屋敷では、何も聞かないでください」
私は、百合絵様の手を握った。
「いつも通りに。笑って、真柴さんに、叔父様の転んだお話をしてさしあげて」
百合絵様は、大きな目で、じっと私を見た。それから、何も聞かずに、こくりとうなずいた。
汽車の中で、冬馬様は、一度も窓の外を見なかった。
膝の上で、手袋の拳を、固く握っていた。往きの汽車と同じように。
けれど、私がその上に手を重ねても、今度は、拳はほどけなかった。
網棚の上で、黒檀のステッキの銀の握りが、汽車の揺れに合わせて、かたかたと小さく鳴り続けていた。
東京駅から、迎えの自動車に乗った。
日比谷の、華族会館の前を通り過ぎた。冬馬様は、そちらを見なかった。
麻布の坂を上るあいだ、二人とも、口をきかなかった。
嫁いだ朝から、数えきれないほど、あの人に茶を勧められた。そのたびに、私は断った。旦那様の言いつけですので、と。
奇妙な嫁だと、あの人は笑っていた。いつも、目尻に深い皺を寄せて。
鳥居坂の屋敷の門が、夕日の中に見えてきた。
自動車が、和館の玄関の前に止まる。
運転手が扉を開ける。百合絵様が、わざと大きな声で、海の話をしながら先に降りていった。お鈴が、行李の紐を抱えて、その後に続く。
私は、帯の上から、千鶴さんの手紙と、活版所の前の写真の入ったところを押さえた。指先が、冷たかった。
式台に、灰色の背広の人が、手をついて待っていた。
銀の混じった髪を、きっちりと七三に分けて。細い銀縁の眼鏡。胸のポケットに、黒軸の万年筆。
真柴さんは、冬馬様の手から、いつものようにステッキを受け取ると、傘立ての、いつもの場所に挿した。
それから、私のほうへ向き直って、目尻に深い皺を寄せた。
「お帰りなさいませ、奥様。鎌倉は、いかがでございましたか」
穏やかな、いつもの声だった。
「お疲れでしょう。すぐに、お茶を」
コメント
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急に重くなる空気に、胸が締め付けられました…。 真柴さんのあの万年筆のインク痕と、来訪帳の一行。一つひとつの伏線が静かに、でも確かに繋がっていくのが怖いくらいで。 冬馬様が拳をほどいてくれなかった場面、あの距離感がもう切なくて。 お茶を差し出す真柴さんの「いつもの声」が、逆に胸に刺さります。 次が気になって仕方ないです…!