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すぐに、お茶を。
真柴さんの声は、いつもと少しも変わらなかった。
私は、式台の前で、草履を脱ぎかけたまま立ち止まった。
帯の内側で、千鶴さんの手紙の角が、脇腹に触れている。
ここで顔色を変えてはいけない。声を震わせてもいけない。一年と四か月、毎日してきたことを、今日もするだけだ。
「ありがとうございます、真柴さん」
私は、いつものように、小さく頭を下げた。
「でも、旦那様の言いつけですので」
一拍の間があった。
それから、真柴さんの目尻に、深い皺が寄った。
「さようでございました。奥様は、相変わらずでいらっしゃる」
笑い声まで、いつも通りだった。
冬馬様は、真柴さんに手袋を預けながら、短く訊いた。
「留守中、変わりは」
「何もございません。タキは相変わらずでございますが、大奥様が毎晩、お顔を見においでです。……篠原君は、鎌倉でお役に立ちましたかな」
「宿題は、届いた」
冬馬様は、それだけ言って、洋館への渡り廊下へ歩いていった。背中は、少しも揺れなかった。
先に降りた百合絵様が、廊下の奥で、わざと大きな声を上げていた。お母様、鎌倉の海、とっても青かったのよ。
私は、冬馬様の後ろを、二歩下がってついていった。
振り返らなかった。振り返れば、あの人の目と、ぶつかる気がした。
食べない花嫁。
嫁いだ朝から、屋敷じゅうに笑われてきた奇行だった。大奥様の膳を断り、女中の運ぶ菓子を断り、家令の淹れる茶を断る。
その奇行が、今夜、初めて私を守ってくれた。
今日から、秘密がもう一つ増える。
私が真柴さんを疑っていると、真柴さんに知られてはいけない。
*
その夜、洋館の厨房で、冬馬様は、黙ってパンを切っていた。
ガス焜炉には火を入れなかった。八月の厨房は、それだけで蒸し暑い。
薄く切ったパンに、バタを塗る。胡瓜を紙のように薄く刻んで、並べる。塩をひとつまみ。もう一枚で挟んで、耳を落とし、三角に切る。
英国では、夏の午後にこれを食べるのだという。
「食べろ」
皿が、作業台の上を滑ってきた。
「汽車の中から、何も口にしていないだろう」
三角のパンが六つ。そのうち四つが、私のほうに寄せてあった。
気づいていたのだ。鎌倉の別荘を出てから、私が水しか飲んでいないことに。
一つつまむと、胡瓜が、しゃりっと鳴った。冷たくて、塩がほんの少しだけ利いていた。
冬馬様は、私が四つ目を食べ終えるまで、自分の皿に手をつけなかった。
「旦那様。お話ししなければならないことがあります」
冬馬様は、手を拭いていた布巾を、作業台に置いた。
私は、鎌倉の座卓で書き並べたことを、もう一度、口に出して並べた。六時十分の電話。八時五十分の電報。玄関の傘立てのステッキ。来訪帳の、あとから書き足された一行。
「あの晩、電話室で千鶴さんの電話を受けて、その足で鎌倉へ行けた人は」
「やめろ」
低い声だった。
冬馬様は、首を横に振った。一度、ゆっくりと。
「九つの冬に、猩紅熱をやった」
冬馬様は、作業台の木目を見下ろしたまま言った。
「熱が下がるまで、三晩、枕元にいたのは宗介だった。父は、その間、一度も帰ってこなかった。母上は、うつると言って、襖の外から声をかけるだけだった」
指が、作業台の縁をなぞる。
「英国へ発つ朝も、そうだ。横浜の桟橋で、船が見えなくなるまで帽子を振っていたのは、宗介ひとりだった」
「……旦那様」
「宗介は、私にとって、父より父だった」
その声は、怒ってはいなかった。
ただ、ひどく遠かった。
「少し、時間をくれ」
私は、うなずくことしかできなかった。
冬馬様は、布巾を取り直して、もう乾いている手を、もう一度拭いた。
「ひとつだけ、頼む」
「はい」
「宗介の前では、何も変わるな。茶を断るのも、礼を言うのも、昨日までと同じにしろ」
冬馬様は、私の顔を見なかった。
「あれは、人の顔色を読むことで、三十年、この家を回してきた男だ」
その晩、冬馬様は、鎌倉から上着の隠しに入れて持ち帰った電報の送達紙を、書斎の鍵のかかる引き出しにしまった。来訪帳の隣に。
鍵をかける音が、廊下の向こうから、小さく聞こえた。
*
翌朝、私は、お鈴を連れて、本所の父を訪ねた。
鎌倉の土産を届けに、と言って出た。干物の包みと、長谷の寺のお守り。真柴さんは、自動車を出しましょうかと言ってくれた。私は、市電で参りますと断った。
「奥様は、市電がお好きですな」
目尻に皺を寄せて、見送ってくれた。
千鶴様も、よく市電でお出かけになりました。
一年あまり前、同じ玄関で、同じ声がそう言ったのを、私は思い出していた。
路地の奥の借家で、父は、床の上に座って新聞を広げていた。
干物の包みを渡すと、顔をほころばせた。けれど、私が布団の下を指さすと、その顔が、すっと引き締まった。
「見本帳か」
「大正七年五月の頁を、切らせてください」
父は、長いあいだ私の顔を見ていた。
「見本帳から頁を切るのは、店を畳むときだけだ」
「わかっています」
「……誰に、見せる」
「まだ言えません。でも、いつか、大勢の前で」
父は、布団の下から、重い帳面を引き出した。表紙の角が、火事の煤で黒い。自分で頁を繰り、あの一枚のところで、手を止めた。
「お前が切れ。お前の罫だ」
私は、刷り見本の横の、父の細字を見下ろした。
二重回しの男。目深の帽子。懐中時計の鎖を、指に巻いたりほどいたりしていた、几帳面そうな白い指。
毎朝、玄関で帽子を差し出す指を、思い出さないようにした。思い出せば、手が震えて、まっすぐに切れなくなる。
母の形見の裁ち鋏で、綴じ目に沿って、まっすぐに切った。
貼りつけた刷り見本と、父の細字の覚え書き。大正七年五月 久遠寺家御用 罫紙二千枚。
いつも締めている紺の博多帯を、ほどいた。端の縫い目を、針で少しだけ解く。頁を半紙で二重に包み、帯の芯に沿わせて差しこむ。それから、母の針で、元通りに縫い閉じた。
お鈴が、目を丸くして見ていた。
「奥様、それ、帯の中にお仕舞いになるんですか」
「肌身離さず、持っていたいの」
父が、ふん、と鼻を鳴らした。
「活字は嘘をつかん。嘘をつくのは、組む人間だ」
いつもの口癖だった。けれど、父は、そのあとに小さく付け足した。
「……紙を盗む人間もいる。気をつけろ、栞」
*
屋敷に帰ったのは、日の傾きかけた頃だった。
玄関の式台で、真柴さんが、盆を持って待っていた。冷えた麦湯のコップが、汗をかいている。
「本所は、お暑うございましたでしょう。せめて、麦湯だけでも」
「ありがとうございます。でも」
「旦那様の言いつけ、でございますな」
真柴さんが、先に言った。眼鏡の奥の目が、やわらかく細められる。
「御前のお言いつけを、ここまで守られる奥様は、初めてでございます」
盆を持つ手は、少しも揺れなかった。
私は、礼を言って、その前を通り過ぎた。帯の芯に縫いこんだ頁の重みが、急に増したような気がした。
その夜、書斎の扉の隙間から、明かりが漏れていた。
叩くと、中から、入れ、と声がした。
冬馬様は、机の前に座っていた。卓上の電灯の下に、紺の布張りの帳面が開いてある。
来訪帳だった。
「ルーペを、貸してくれ」
私は、帯から鼈甲縁のルーペを抜いて、冬馬様の手のひらに載せた。
冬馬様は、それを目に当てた。
八月十四日の頁。窮屈に押しこまれた、青黒い一行。宗介の「介」。その払いの先が、隣の行の朱印の縁を跨いでいるところ。
冬馬様は、動かなかった。
電灯の光が、白いシャツの肩を照らしていた。柱時計の振り子の音だけが、部屋の中で鳴っていた。
長い、長い沈黙だった。
やがて、冬馬様は、ルーペを下ろした。左の眉に指が伸びかけて、途中で止まった。
その手で、自分の目を覆った。
「……なぜだ、宗介」
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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コメント
1件
うわ、重い…でもすごく綺麗な話だった。 「食べない花嫁」の奇行が初めて栞を守るってところ、ゾクッとしたよ。真柴さんへの疑いを隠しながら、毎朝と同じように「ありがとうございます」って言うのが、もう切なくて。 冬馬様が「少し時間をくれ」って言うシーン、あの人の葛藤が胸に刺さった。最後の「なぜだ、宗介」って声が、ずっと耳に残ってる。続きが気になる…😢