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遥が日下部の腕を振り払ったのは、その数分後だった。強くではなかった。ただ、壊れそうな線を、なんとか最後に引いたような拒絶だった。
「……もういい」
それだけを言い残し、遥は廊下を去った。足音は静かで、けれど明らかに不安定だった。
その姿を、校舎の階段の陰から誰かが見ていた。
蓮司。
まるで最初からそうなるのを知っていたかのように、彼は佇んでいた。ポケットに手を突っ込み、視線だけで遥の背中を追う。
そして、日下部が後を追おうと一歩踏み出したとき──
「……ねえ」
不意に、その声が背後から響いた。
「今の、何? “告白”のつもり? それとも、“更生プログラム”?」
振り返ると、そこにいたのは蓮司だった。笑っていたが、目が笑っていない。冷めた、観察者の目。
「……邪魔するな」
日下部はそれだけ言って通り過ぎようとした。だが蓮司はすぐに背後から続けた。
「おまえさ、あんなふうに触れて……何を壊したか、分かってんの?」
ぴたりと、足が止まる。
「わかってるつもりだろ。でも、わかってない。“触れたこと”じゃない、“触れられたときの顔”だよ。あれ、見た?」
日下部は振り向かない。だが、蓮司は構わず続ける。
「たぶん、あいつの“今の顔”、一番えぐってんの、おまえだよ」
ほんの少しの沈黙。だが、それは残酷なまでに長く感じられた。
「……優しさって、怖いんだよ。おまえの“綺麗さ”は、あいつの“地獄”を照らすから」
蓮司は微笑を深めた。
「ほら、ちゃんと見て。おまえが殻を割ったせいで、あいつ、もう逃げられない」
──その声は、まるで愉悦すら含んでいた。
「さて。じゃあ俺も、“あいつ”の新しい顔、見に行こうかな」
そう言って、蓮司は階段を下りていく。あくまで軽やかな足取りで。獲物を狩る者のように、無音の笑みを浮かべながら。
残された日下部は、拳を握りしめていた。
その掌には、確かに“遥の体温”がまだ残っていた。