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今、病室の中で元貴と話をしている田中先生は、脳神経外科の医師だと、看護師さんから廊下で説明を受けた。まだしばらく時間がかかると言われたので、僕たちは自販機の近くにあるベンチに移動して、座って待つことにする。
「…元貴が、『10歳』って言ったの?」
若井が、缶コーヒーを飲んで自分を落ち着かせながら、僕に訊いた。僕も、同じくコーヒーを飲んで、さっきの元貴の様子を思い出して答える。
「…うん。なんだか、話し方も、少し幼くて…。」
「マジか…。」
「…あと…その…。」
「ん?」
僕は、ちょっと言い淀んで、だけど先に言っておいた方がいいと判断して、若井と、統括マネージャーの仲村さんを交互に見て言う。
「マネージャーって何…って、言ってて…。」
「え?」
仲村さんが眼を丸くする。
「………若井。」
「ん?」
僕は、若井の右手を両手でそっと握って、静かに見つめた。
「…何?」
「…若井の事も、もしかしたら…。」
「…覚えて、ない、の?」
「わからない、わからないけど…さっきは、…『わかいって』…。」
元貴の、「わかい? だれ?」と言う言葉を、どうしても伝えられなくて、僕は喉を無意識に締め付けた。そんな僕の様子を見て、若井は僕の言いたかったことを読み取ってくれたようだった。
「そっか…。アイツ、この俺を忘れやがって、酷いやつだな全く。」
若井が緩く笑って、敢えて軽い調子で呟く。
仲村さんが、元貴の意識混濁についての第一報として事務所の方へ連絡を入れている間に、看護師さんが僕たちを呼びに来てくれた。
「ずっと、藤澤さんを呼んでましたよ。」
「…そうですか…。」
若井が、僕の背中をポンと叩いて、微笑んだ。僕はほんの少しだけ口角を上げて見せたが、すぐにまた表情を落とす。若井の気持ちを思うと、自分だけが元貴に覚えてもらえている現状を、素直に喜べない。
僕たちが病室に入ろうとした時、廊下を急いでこちらに向かってくる、元貴のご両親が目に入った。
「あ、ひろくん、涼くん!」
「おばちゃん、久しぶり。」
「お母さん、お久しぶりです。」
僕たちは軽く頭を下げて、挨拶を終える。ご両親を先頭に、病室へと入っていく。
「りょう…!」
パッと顔を上げた元貴の顔が、曇った。自分の、お父さんとお母さんの顔を見て、唇がわずかに震える。
「元貴?」
「…お母さん…? …なんか…おばあちゃんみたい…。」
「…え?」
「大森さんのご両親ですね? こちらで説明致しますので、どうぞ。」
田中先生が、元貴のご両親を病室から連れ出して、別室へ移動するようだ。
僕たちは、心配そうにそれを見送り、元貴のそばへ歩み寄る。
「…りょうちゃん、あれ…オレのお母さん?」
「…うん、そうだね…。」
「…えー? お母さん、あんなにおばあちゃんだったかなぁ?」
僕は、困った顔で元貴を見返すことしかできなかった。元貴が、チラ、と若井に視線を向ける。若井も、じっと元貴を見つめていた。
「…りょうちゃん、この人…だれ?」
僕は、息を飲んだ。すぐに若井を見て、その表情を確認する。若井は、ニコッと笑顔を作った。
「…初めまして、元貴くん。俺の名前は、若井だよ。」
「…わかい?」
元貴が、僕を見る。僕は頷いて、元貴の肩にそっと触れた。
「…若井はね、すごくいい奴なんだよ。元貴は絶対、大の仲良しになれるよ。」
「…ふーん…?」
不思議そうな顔をして、若井を見つめる元貴。その内に、看護師さんが僕たちを呼びに来た。田中先生から詳しく話を聞かせてもらえるとのことで、待っている間、元貴には看護師さんが『ドラえもん』のDVDを観せてくれることになった。
小会議室のような部屋に通されると、仲村さんも既に元貴のご両親と一緒に話を聞いているようだった。
改めて、僕たちに説明されたことは、以下の通りだった。
元貴は、精神年齢が10歳程度になっていること。
漢字などは、小学五年生程度までの知識しかなくなっていて、 ただ、YouTubeがどういったものなのか、スマホがどんな道具なのかなど理解している事もある。完全に10歳に戻ってしまった訳ではなく、その認知には差があること。
しかし、自分がMrs. GREEN APPLEのボーカルであることや、作詞作曲を手掛けてきたことなどは、記憶からすっかり喪失されているらしい、こと。
僕は、言葉を失った。元貴の記憶から、ミセスが消えている。そして、若井も…。
『りょうちゃん。』
元貴の口から呼ばれ続けているその名前は、どんな意味を持っているのだろう。それが、僕の心にずっと引っかかっていた。
「…あの、僕のことは覚えてるんですか…? 名前は呼ばれてますけど、なんか…。」
「ご自身のバンドのことを忘れているため、藤澤さんのことを『キーボーディスト』として認識しているわけではないようです。ただ、記憶としてではなく、おそらく『感情』として、顔と名前が一致して残っているのだと私は思います。」
僕が、意味を図りかねて首を傾げると、先生が言葉を探して言い直した。
「名前がわかる人を挙げてもらったところ、一番最初に出たのが、藤澤さんでした。どういった人なのかと尋ねましたら、『わからない』と。」
わからない…か。元貴の中に、僕は今、どういう関係値にいるのかと気になっていたが、ハッキリと示されてしまった。僕は、思わず眼を伏せる。
「『わからないけど、安心する』と言っていました。ですので、今は大森さんの心の拠り所として、藤澤さんに頼らせてもらうのが一番いいと、私は思います。」
僕が顔を上げると、先生が頷いた。元貴のご両親が、僕に頭を下げる。
「元貴の中の私たちと、今の私たちは、あまりにかけ離れてて、多分不安になるだろうって。本当は、家に連れて帰ってゆっくり療養させてあげたいけど、先生はいきなり生活を変えない方がいい、と仰って。」
元貴のお母さんが、眼に涙を湛えながら、僕に話す。
「仲村さんとも話したんだけど、もし涼くんとひろくんさえ良ければ、三人でしばらく暮らしてやってもらえないかな…?」
お母さんの言葉に、お父さんと仲村さんも頷く。僕が、若井と眼を合わせると、若井はすぐに頷いた。
「…わかりました。退院したら、僕と若井で、しっかりと元貴を支えていきます。」
「まかせて、おばちゃん。」
若井も、元貴のご両親に向かって、笑顔を見せる。ありがとう、と言って、二人とも僕たちに頭を深く下げてくれた。
「…それで、早速なのですが、大森さんに、現在のご自身の姿を認識してもらうことから始めたいと思うのですが、よろしいでしょうか。」
「え?」
先生の話によると、元貴の頭の中では、自分は10歳の身体であると思っているそうで、まずはハッキリと29歳の身体であることを受け入れることから始めるらしい。
「…俺たち、めっちゃ歳上だと思われてたってことか。」
病室に向かう途中、若井が僕に話しかける。
「そうなるね。…10歳だと思ってたら、29歳の身体で…って、元貴大丈夫かな、パニックになるんじゃ…。」
「………歌も、歌えないのかな。」
若井が、ポツリとこぼす。僕は、なんとも言えなくて、ただ若井の背中に手を添えた。
病室に入ると、元貴が『ドラえもん』のアニメを楽しんでいるところだった。今観ている話が終わったタイミングで、田中先生がテレビを消して、元貴に話しかけた。
「大森さん、ちょっといいですか。 」
「なに?」
「大森さんは、頭を強く打って、今、頭の中が散らかっちゃってます。」
「…うん?」
「大森さんは、気持ちは10歳だと思っていますが、本当は、29歳なんです。身体は、大人なんです。」
「…29?」
「今から、鏡を見てもらいます。驚くかもしれませんが、ゆっくりで大丈夫です。思い出していきましょう。」
「…え、…なんか、怖い…。」
元貴が、僕に不安な視線で縋ってくる。僕はすぐに歩み寄って、伸ばされた手を握った。
「大丈夫、一緒に見ようね。」
「…うん。」
元貴は、自分の脚や、手を、じっと見つめた。言われてみると、確かに10歳にしては大き過ぎるそれらに、改めて気付いたのだろう。
看護師さんが、姿見を部屋に運び入れる。僕と若井で、両傍から元貴の手を支えて、ゆっくりと立ち上がらせる。少し頼りない足取りで、姿見の方へと進んでいく。
「…え。」
元貴から、一声、漏れた。鏡には、いつもと変わらない、元貴の姿が映し出されている。頭に包帯が巻かれてはいるものの、いつもの、29歳の大森元貴だ。
「…え、これ、…オレ?」
「…うん。」
「俺とおんなじ、29歳だよ。」
若井がそう告げると、元貴は眼を見開いて、若井を見た。この人と同い年…? という、驚きの表情だった。
「…お、じさんじゃん…。」
元貴が、ポツリとこぼすと、若井がフハッと笑った。
「そーだな、29はおじさんだったな、子どもの頃。」
「えー…マジか…。」
元貴は、驚いてはいるものの、パニックになったり、拒絶したり、そういう取り乱し方はしなかった。その場にいた全員が、安堵の表情を浮かべている。そんな中で、元貴が、ポツリと呟く。
「…オレ、って、カッコいいな…。」
10歳の元貴の、理想通りの大人にでもなっていたのだろうか。惚けた顔で放ったその言葉に、僕も若井もつい吹き出して笑ってしまった。
それから、二週間ほど、元貴は入院生活を送った。その間に、僕と若井は、元貴の部屋に当面の生活に必要な分だけの自分たちの荷物を運び入れておく。
同時に、事務所で、これからのことをみんなで話し合った。元貴が独自に先々のことを進めていることに関しては、僕は何も手出しはしない。というか、出来なかった。それは元貴の中だけにある構想で、元貴が不在の今、下手なことをして台無しにしたくはなかったからだ。元貴と一緒に動いていたスタッフさんに一任して、とりあえず一度全て凍結してもらうことにした。
幸いなことに、近々に迫っているようなリリースなどはなく、いくつかのテレビ歌唱や雑誌インタビューなど、メディアでの仕事をリスケ、もしくは辞退するだけで済みそうだった。
「すでに告知してしまってるテレビの出演辞退は、誤魔化すことが出来ませんね。」
「そう…ですね。」
「…公表しますか。」
スタッフさん達と、若井が、僕を見る。僕は机に視線を落としてしばらく考えを巡らせた後、顔を上げた。
「…元貴の記憶混濁の事は伏せて、この前の地震で怪我を負った事だけを公表しましょう。」
「まあ…そうですね。」
「全治はまだなんとも言えない、少しリハビリが必要だとも言っておきましょうか。」
「わかりました。」
「あ、でも、番組の出演辞退は、まずは体調不良とだけ伝えるようにしてください。」
「え?」
「病院が割れて、人が殺到するのは避けたいですから…。」
「あ、確かに…。では、こちらからの公式発表は、退院して家に戻ってからにしましょうか。」
「はい、それでお願いします。」
スタッフさん達との当面の対応をいくつか話して、その場は解散になった。それぞれのチームで、まだ話し合いが続いている。
「涼ちゃん、やっぱすごいわ。しっかりしてる。」
若井が、改めて感心したように僕に話しかけた。
「全然…抜けてるところがないか、若井もしっかり見ててね。」
「うん、大丈夫だよ。元貴の退院が早く決まるといいね。」
「…そうだね…。」
僕は、元貴から預かっている合鍵で、一人家へ入る。元貴が退院する前に、そして、若井との同居が始まる前に、少しの片付けが必要だと考えたからだ。
まず、寝室に足を踏み入れる。元貴が一人で寝るにしては広すぎるベッドの横、サイドテーブルの引き出しに手を伸ばした。そこにある、僕たちが恋人である証の一つ、コンドームとローションを、手に持っているビニール袋へ入れていく。こんなもの、万が一にも、若井や、今の元貴の目に触れるのは避けたかった。そのまま、お風呂場に向かう。洗面所の棚の中にも置いてある、同じくコンドームとローションを回収する。
キッチンに向かって、食器棚を眺めた。付き合い始めの頃に盛り上がって買った、ペアマグ。二つくっ付ければ、『M』と『R』と書かれた文字の間に、ハートマークが現れる。我ながら、バカな物を買ったな、と乾いた笑いが漏れ出た。これも、一応回収しておくか…。
最後に、リビングのテレビ台の横にあるラックの前に立つ。二人の写真が入ったシンプルな写真立て、僕が無理やり飾ったやつだ。そして、記念日や誕生日に渡した、お手製のフォトアルバム。中を見返すのも恥ずかしくなるようなもの達を、次々とビニール袋に入れていく。
鼻の奥がツンとするのを、気付かないふりをしながら、僕はそれらを自分の部屋へと隠しに行った。
「藤澤さん、大森さんの退院が決まりましたよ。」
既に告知していたテレビ番組の出演辞退に世間が俄かに騒ついた数日後、事務所の会議室で仲村さんからそう告げられる。暦は地震の日から数週間が過ぎ、四月の下旬に差し掛かろうとしていた。
「良かった…。あ、そういえば、警察の実況見分に立ち会ってもらって、ありがとうございました。」
僕は、仲村さんにきちんとお礼を言えていなかった事を思い出して、今更ながらに頭を下げる。仲村さんは、身体の前で両手をぶんぶん振って、いえいえそんな! と苦笑いをした。
「それが仕事ですから。それに、藤澤さん達にあの状態を見せる訳にはいきませんからね。」
あの状態、というのは、元貴が倒れていた洗面所のこと。恐らく、警察が来るまでは、元貴の血液などもそのままにしておく必要があったのだ。仲村さんは、それを全て請け負い、後片付けまでやってくれていた。ご自身だって、第一発見者だったのだ、その心中は察するに余りある。
「すみませんでした、全てお任せしてしまって…。仲村さんだって、ショックだったでしょ…本当に、ありがとうございます。」
「…いえ、大丈夫です。…でも、ありがとうございます。」
仲村さんは、少し目を潤ませて、逆に僕にお礼を述べた。
その後、ソロ仕事の打ち合わせを終えた若井が僕たちのところへ来て、元貴の退院を知った。若井はホッとした顔をして、これからが大変かもな、と僕の肩を優しく叩いた。
僕は、眉尻を下げて、笑って若井を見返しながら、頭の中では、あの部屋に恋人の証で取り残したものはないかと、考えを巡らせるのだった。
コメント
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もときくん(10)がりょうちゃんを感情で覚えてるの、ウルウルきました🥺りょうちゃんがそれを喜べないの、ほんと切ないです、、お部屋を片付けるシーンも切ない🥲続きも楽しみにしてます!!!
お、じさんじゃん…オレかっこいい…10歳もときくんかわい過ぎて… 所々とても切ないのですが、ふふっと笑えるところもあって、この雰囲気がすごく好きです🥰 若さんもショックだろうし、でも大人な対応してて、りょさん、こういう時ぱぱっときちんとした対応取れるの、すごくわかる気がします!ちゃんとしてる…けど、抜けてるとこの確認をお願いするとか、せつないー!! 続き、楽しみにしてます😌🫶
あとがき やっと出来上がりました、ノニサクウタ 当初はコメディになると言っていましたが、全くなりませんでした笑 シリアスというか、なんか真面目な作品になりましたが、これはこれで、という感じです。 涼ちゃんが、自分を覚えててもらえた事を、両手を上げて喜ばない辺りからどんどん、コメディは無理だなコレ、と感じていました笑