僕が小さい頃は少々やんちゃな子だった。
欲しいものは大抵手に入ったし、両親は怒ることもなく甘やかしてくれた。
学校では友達とイタズラをしたり、授業を抜け出したりと怒られる事が多かったが、反省する事はなかった。
先生に謝るのはいつも兄だった。「すみません。こら、謝れ」って僕の頭を押さえつける。そして家で説教されて、僕は両親に甘える。
普段は優しい兄も、こういう事になると厳しくなる。そして両親は言う、兄ちゃんの言うことちゃんと聞くんだぞと。
兄弟仲はとても良かった。僕は兄に育てられたと言っても過言ではないほど兄のお世話になっていたから。
兄は小学校と中学のどちらも生徒会長をしていて、成績良し人当たり良しの人気者だった。
そんな兄と僕は比較されるのが当然で、僕が何かをする度に兄の名前が出てくる。別に嫌ではなかったが、兄のようにはできなのか、なんて言ってくる大人たちに敵意を感じていた。
どれだけ叱られようが、睨まれようが結局あの人たちは他人で僕にはどうでもよかった。
でもやっぱり兄に怒られるのは怖い。それは、僕が本当は悪いことをした自覚はあるし、兄を兄として慕う気持ちもあったからだろう。
いつも僕に抱きついたりとベタベタしていた兄がだんだん僕から離れるようになった。
ちょっとだけ寂しく思うこともあったが、仕方の無いことだと簡単に受け入れた。
「…あやくんが羨ましいよ」
兄がそう言ったのはいつの事だろうか。
僕はとてもいい子と言える性格じゃなかったけど、誰からも褒め称えらる兄がそう言うのはおかしいと思う。 まあ、兄ちゃんを羨ましいと思ったことはないけど。
いつの間にかでき始めていた兄との溝は、埋まること無く深くなって行った。
「綾は彼女とか作んないの?」
友達の高田が前の席に座り、そう話かけてきた。
「その前に好きな人ができないんだよ」
僕はパックのみかんジュースを飲み干して答える。
高田と知り合ったのは高校の入学式で、それ以来よく話すようになった。
「ふーん。…昨日、女子に告られてたよな?」
「うん。確か同級生って言ってたし…もしかして知り合い?」
告白なんて良くあることで、聞いてくると言うことはその子に興味があることだと勝手に推測してしまう。相手の顔と名前は覚えてないけど。
「いや……ああ、まあな 」
微妙な返事だ。飲み干したのを忘れ、空になった紙パックをまた啜ってしまった。後で別の買いに行こ。
「…」
帰り道、イヤホンで音楽を聞きながら信号を待っていた。僕の隣や後ろにも何人か人がいた。
「あの人、かっこよくない?」
イヤホン越しでも聞こえる黄色い声。もう慣れていていつも通りだ。
全部いつも通りで、代わり映えなんかなくて、ちょっとだけつまらない。
信号はまだ赤で、長いと思いながら前を通る車たちをぼーっと眺める。
眠くなってきた。
ドンッ
背中が何かに押され、体が前方に飛び出す。
「え」
車のブザー、人々の悲鳴で瞬時に状況を理解する。
後ろを振り向くと、人混みの中に犯人らしき姿を見つけた。
ブレーキ音が近づき僕は悟った。これ、無理だ。
その刹那、激しい衝撃で意識を失った。
病室で目を覚ます。運良く、軽く頭を打ったのと打撲やかすり傷程度で済んだらしい。
高田に押された、と思っていたが 実際、本当にそうだった。
2人きりにしてもらい、なんでこんなことをしたのか聞いた。
理由はなんとなく分かっていた。ただの嫉妬だろう。
高田の言い分は思った通りだった。僕が憎いとか、僕に好きな人が取られたとか、お前はこの気持ちは一生分からないだろうなんて。
泣きながら言われたが、幻滅していくだけだった。
僕は死ぬかもしれなかったというのに、結局あいつは自分の事しか考えていない。
友達だと、思ってたのに。
「もういい、帰れよ」
皆、同じ目をする。 獲物を狩るかのような目を。好意も嫉妬も同じ事だ。
怪我も良くなり学校に行くと、僕の顔を見るなり何かを話す生徒たちの目が皆同じような色を滲ませていた。
居心地が悪い。ここに居たくない。
結局、僕は学校を抜け出した。
適当にバスに乗る。どこか遠くに行きたかった。
イヤホンで音楽を聞きながら、ぼーっと窓の外を眺める。
いつの間にか眠っていて、ここが終点だと運転手に起こされた。
バスを降りると、磯の香りがした。耳をすませばざあざあと波のさざめきが聞こえて、どくん、と心臓が鳴った。
誘われるように進んでいくとそこには海が広がっていた。
海沿いにあるコンクリートの塀に座って目を閉じる。
心地よくて、自然と笑っていた。
その時にはもう、僕は海に心を奪われていたんだ。
「……あやくんは、小さい頃から自由人で、あの頃は、自由に生きられるのがずっと羨ましかったけど」
「自由、か。本当に自由だったかなんて本人にしか分からないと思うが 」
話し声が聞こえて、目が覚める。兄ちゃんと海の声だ。
「確かに…自由ってなんだろ」
2人はいつの間に仲良くなったんだろうか。僕が寝ている間に、普通に会話ができるようになっている。
「あやくん起きたんだ」
部屋に入ると兄が僕に気づいた。
「うん。今何時?」
「2時。よかった、熱はだいぶ下がってる 」
僕の額に触れ、兄が微笑んだ。海に視線を向けると、目が合った。
「ん。海、もう帰ってきたんだ」
「ああ。って言っても30分前くらいだが」
ということは30分はお喋りしていたんだろう。2人が仲良くなるのはいい事だ。
「あやくん、まだ具合悪いでしょ?」
「え、もう平気だけど 」
「嘘だ」
兄は探るような目で僕をじっと見つめてきた。
目を逸らし、ため息をつく。
「…ちょっと嫌な事思い出しただけ」
「…」
兄は何も言い返して来なかった。
実際、さっきの夢のせいで気分は最悪だ。
「散歩してくる」
止める兄を無視して、コートを手に取り家を飛び出した。
「…さむ」
勢いで出てきたものの、外の寒さを侮っていた。…走るか。
少し、頭痛がする。たぶんまだ熱がある。
それでも、僕は走り続けた。
どこか遠くに行きたかった。
息があがり、苦しくなって立ち止まる。
目眩がする。
昔からそうだった。遠くに行きたいという衝動に駆られるのは。
帰ることなんか考えずに、ただ遠くへ向かっていた。
たどり着く先はいつだって海だった。どこへ進んでも、結局波のさざめきに誘われるように海へ足を運んでいた。
この町に引っ越してからはそう思う事が無くなったんだけど。
僕は砂浜に立っていた。
「綾!」
後ろから僕を呼ぶ声が聞こえた。どうやら追いかけてきたようだ。
「帰ろう」
僕の手を握り、そう促す海をじっと見つめる。
濃い緑色の瞳が僕を見ているのに、まるで遠くを見ているかのようだった。
「……お前は、何のために僕の傍にいるの?」
下を向く。海は、海じゃない。
海という人間は、最初から存在しない。
「……」
ずっと分かっていた事だ。でも、海が好きだから、僕がずっと一緒に居たいと思えたのは海だったから、見て見ぬふりを続けていた。
これはただの勘違いかもしれない。何も教えてくれない海を、勝手にそう決めつけてしまっただけかもしれかい。
でも今は、何故か冷静になれなかった。
「なんで…」
そう言いかけたが、海の表情が見えて言葉を失った。
海は僕の言葉に、動揺しているようだった。
コメント
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マジで好きです。ありがとうございま〜す!続き待ってま〜〜す!!!!
不穏です