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ある日の会議前───…
デスクで次の会議の資料をまとめていると、背後から急に気配を感じた。
背筋に冷たいものが走る。心臓が不自然に速く鼓動し始めた。
こんな忙しい時に話しかけてくる相手は限られている。
まさか、と思っていたら案の定嫌な予感は的中した。
「あっ、雪白〜今いい?」
いつもの陽気な、けれどどこか薄っぺらい声が聞こえて、俺は心の中で「ゲッ」と小さく声が出そうになるのを必死でこらえた。
鈴木の声だ。
彼はいつも人懐っこい笑顔の裏で、何を考えているのかわからない不気味さがあった。
特に俺に対してはそうだ。
その笑顔には、どこか悪意がちらついているように感じていた。
それは被害妄想だと思い込もうとしても、拭いきれない感覚だった。
そんな思いを隠すように、顔には愛想笑いを貼り付けながらゆっくりと振り向く。
「なに?」
わざとらしく明るい声で訊ね、首を傾げてみせる。
鈴木は俺のデスクの隅にある
まだ手をつけていない資料の山をちらりと見て、にやにやと笑った。
その顔は、まるで獲物を見つけたかのような楽しげな表情だ。
「このあと会議じゃん?あれ、時間変更になったからさ」
「え?会議って……あと15分後のはずだけど…急遽変更されたってこと…?」
困惑しながら尋ねる俺を見て、鈴木はさらに口角を上げた。
まるで俺の反応を楽しんでいるかのようだ。
「そ、今から1時間後になったから大幅な変更らしーよ?」
彼の目には明らかに悪意が宿っていた。
それは憎悪とは違う、ただ人を貶めて楽しむような、無邪気で底意地の悪い光だった。
それがわかっていても、どうすることもできない。
彼の言葉を疑う根拠もなかった。
彼はわざとらしく両手を合わせて、申し訳なさそうに肩をすくめてみせる。
「実は雪白にだけ伝え忘れてたんだよ~」
「…でも、そんな直前に変更なんてあるかな?他の部署の人たちもスケジュール組んでるはずだし…」
戸惑いを隠せないまま尋ねると、鈴木はなんでもないことのようにひらひらと手を振った。
「なんでも『もっと詳しく詰めたい』って部長が言い出してさ〜急に時間ずれちゃったみたいで」
彼の声色は相変わらず軽薄だが、その奥に潜む底意地の悪さが透けて見えた。
俺は資料を抱えたまま、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
俺の頭の中では、疑念が渦を巻いていた。
本当にそんなに遅くから会議するのかな…
そんな疑念が浮かぶも、確信を持てるわけもなく、結局何も言えなかった。
鈴木がひらひらと手を振りながら去っていく背中を見送る。
彼の去った後、俺のデスクには、会議の開始時間が1時間後に延びたという、信じがたい情報だけが残された。
*****
「本当に大丈夫かな…」
不安が胸に広がる。
周りの同僚たちはすでに会議室に向かい始めていた。
俺はデスクで一人、会議開始まで時間をつぶそうと資料を整理し直す。
しかし、どうにも落ち着かない。
手元の資料の文字が頭に入ってこない。
過ぎた数分という時間が、やけに長く感じられた。
その時、焦ったような足音が近づいてきた。
顔を上げると、尊さんが鬼気迫る表情で俺のデスクに近づいてくる。
彼の顔には、普段の落ち着きは微塵もなかった。
ただならぬ気配に、俺の心臓は警鐘を鳴らし始めたところで
「雪白、もう会議始まってるぞ、こんなところで何してるんだ」
「え?」
その言葉に心臓が跳ね上がった。
全身の血の気が引いていくのがわかる。
「いや、30分後に変更になったって聞いたんですけど…」
困惑しながら答える俺に、尊さんは一瞬だけ眉をひそめた。
その表情にわずかな動揺が見えた気がしたが、すぐに厳しい顔に戻る。
「…とりあえず急ぐぞ」
まるで俺の言い分を聞く暇はないとでも言うかのように、有無を言わさず命じるように言った。
*****
バタバタバタッ。
廊下を駆ける俺の足音が、やけに大きく響いた。
尊さんの背中を追いかけるように
いつもより速く走ってしまった足取りとは裏腹に、気持ちだけが鉛のように重くなる。
心臓がドクドクと不規則な音を立てていた。
会議室のドアが見えてきたとき、呼吸が乱れていることに気づく。
重いドアを開けて会議室に入れば
すでに多くの社員たちが集まっており、皆が俺の方を一斉に見ていた。
その冷たい視線が胸に突き刺さる。
そして、その視線の先に、当然のように鈴木の姿もあった。
彼は俺を見て、にやりと口角を上げている。
それは、俺が遅刻したことを確信し、勝利を確信したような笑みだった。
「ちょっと、雪白遅いじゃん。会議、もう始まってるよ?」
彼の声は周りの閑寂の中で、やけに大きく聞こえた。
その視線には確かな嘲笑が含まれていて、俺はただただ恥ずかしさと悔しさで顔が熱くなった。
会議室内には、俺の失態をあざ笑うかのような冷たい空気が漂っていた。
周りからは呆れたような溜息や、ひそひそ話が聞こえてくる。
まるで俺だけが場違いな存在であるかのように感じた。
俺はすぐに頭を下げて、これ以上ないほどに小さく震える声で言った。
「すみません!会議の時間を間違えていました…」
課長に「…会議の時間を間違えるなんて、もっとしっかりしてくれよ」と呆れたように言われ
俺は凹みながらただひたすら頭を下げるしかなかった。
「大変、申し訳ありません…以後、気をつけます」
◆◇◆◇
会議終了後。
誰もいなくなった会議室で、俺は力なく項垂れた。
部長の「しっかりしてくれよ」という言葉が頭の中を何度も何度も繰り返される。
すると、ふいに背後から声がした。
振り返ると、鈴木が笑顔で立っていた。
「いや~俺の伝達ミスでごめんね?」
彼の声音はどこか嘲笑交じりに聞こえた。
まるで全てがお芝居だったとでも言うかのように。
俺は何も言えず、ただ唇を噛みしめるしかなかった。
◆◇◆◇
その日の昼休み───…
定食屋の喧騒の中でも、尊さんの声は低く、鋭かった。
焼魚定食の湯気がふわりと漂う。
尊さんは箸を置き、真剣な眼差しで俺を見つめた。
その視線に、俺の心臓は再び跳ね上がった。
「30分後に変更になったなんて、誰から聞かされたんだ?」
その質問に、俺は一瞬息を止めた。
正直に、鈴木に騙されたと答えるべきか迷った。
しかし、以前一度鈴木のことでお手間を掛けさせてしまった以上
尊さんにまた鈴木の名前を出して助けを求めるのは気が引けた。
それに、もしこれが彼の単なる「伝達ミス」だったとしたら、俺が尊さんに相談したことで
鈴木との関係はさらに悪化するだろう。
なにより、尊さんとの貴重な昼休みを、こんなくだらない話で潰したくなかった。
「鈴木に……言われたんですけど、どうやらあいつも伝達ミスだったみたいです、はは」
俺はわざと明るく振る舞い、乾いた笑いを漏らす。
尊さんの眉間に深く皺が寄った。
テーブルの上に置かれた茶碗を指先で軽く叩きながら思案する。
その仕草に、俺は彼の言葉を待った。
「なるほどな…まあいい、次から気をつけろよ」
その言葉に俺は安堵し、胸をなで下ろした。
「は、はい!」
俺は背筋を伸ばして返事をすると、尊さんはふっと微笑み
「今日くらいは奢ってやるよ」と言って席を立つ。
その言葉が、少しだけ重い気持ちを救ってくれた。
それでも心のどこかでは、まだ暗雲が立ち込めていた。