「いいよ!何でも訊いて」
カップを落としそうになった時の様子とは一転して、随分と張り切った声だ。ルスの中でどんな思考の流れがあったのかまでは不明だが、『訊け』と言うのなら遠慮なく訊いていこうかと思う。
「確か二人は、一年と一ヶ月くらい前にこっちへ来たんだったよな?」
「うん、大体そのくらいかな。『ルートラ』っていう魔法使いに勧誘されてこっちへ移住して来たの」
「へぇ」
契約が完全に完了し、自在にルスの“記憶”と“知識”を彼女から引き出せる様になった。例え彼女がきちんと覚えていない事柄でも、脳に記録さえされていれば覗き見れる。だけどその時の細かな感情の動きまではほとんどわからない。余程インパクトのあった件ならその時の感情も“記憶”の中からしっかり汲み取れたりもするが、今はルスがどのくらいまで自分の“記憶”を認識しているかを知りたかった。
「リアンは元々獣人だったのか?」
違うと知ってはいるが、そうである事を打ち明けるわけにもいかないので、あえて訊いた。勝手に、時には無自覚に記憶を盗み見られているなんていくらルスでも気味が悪いだろうから、既に色々知っているとは言わないつもりだ。
「違うよ。リアンはまだ赤ん坊で、このままじゃ面倒を見るのは厳しいって判断されてね、フェンリルの子供の姿にしてもらったの」
返答を聞くたびに頭の中にその時の様子が浮かび、今の彼女の表情からその時の感情を察していく。
「ルスが、『フェンリルに』と指定したのか?」
あんな生活をしていたルスが『巨狼・フェンリル』なんて生き物を知っていたとは思えない。しかも血を分けた弟を、自分から天災級の化け物にする事を希望するタイプでもないので不思議でならなかった。
「いいや。獣人にする事を了承はしたけど、種族は彼らに任せたの。ルートラは『代償の問題で仕方なくそうするしかなかった』って言ってたけど…… それ以上詳しくは聞かせて貰えなかったんだよね」
ルスが苦笑いを浮かべている。代償が何かも知らず、追求出来るだけの知能も持っていなかったのだから知らないままでも当然か。
僕が思うに、リアンがフェンリルと化したのはルス達の代償に『あの母親』が含まれたせいだろう。
ルスとリアンの産みの親である“澤口あかり”は、呼吸するみたいなノリで嘘をつき、生まれながらの悪意の塊だった。あんな者を代償とすれば、異世界への移動や魔力を扱える体への変化などに代償を利用しても、消化しきれない負の遺産も相当なモノだったはずだ。その皺寄せが“フェンリル”という形で集約され、赤子ゆえに無垢だったリアンが収まる器になったに違いない。“フェンリル”の性質が闘争心旺盛な獣だとしても、ルスがリアンに愛情を持って育てれば伝承通りにはならない方へ賭けたのだとしたら、なかなかのギャンブラーだな、ルートラって奴は。
(愛情の『あ』の字すら知らない様な育ち方をした奴が育てるっていうのに、分が悪いとは思わなかったのか?)
「…… そうなのか。——で、その後は?」
「えっとね、移住後はすぐに教育期間に入ったんだけど、ワタシの知識不足を補う為にと少し長めに勉強させてもらったよ」
ルス達を含め、異世界からの移住者達は多種多様な世界から来ている為、移住後はこの世界へ馴染む為に必要最低限の知識を叩き込まれる。共通の認識を一切持たずに社会に巣立たせても、受け入れ側も移住者自身も、お互いに生きていくのは難しいだろうから懸命な判断だと思う。
「大変だったけど、毎日が楽しかったなぁ」
くすっと笑い、ルスが思い出に浸る。そんな彼女の“記憶”を黙ったまま盗み見ると、色々な“初めての経験”が走馬灯の様に流れていった。
三歳程度の知能しかないルスへ、本来なら持っていたはずの知識やこの世界で必要な事柄を魔法で頭に直接叩き込まれた瞬間の驚き。この先リアンと二人で暮らす為には成人していた方がいいからと、当時まだ九歳だった彼女を十七歳の女性の姿へ変化させてもらった日の衝撃。初めての買い物や散歩などと情景は多種多様だ。ルスが回想していく“記憶”を知っていくだけで、こっちまで笑みをこぼしそうになった。
(元と比べれば確かに大人っぽくはなっているけど、内面から滲み出る幼さは全然隠せていないな)
特に胸。貧相な九歳から健康そうな十七歳の体になろうが、驚く程全く全然ちっとも変化していない。
「教育期間は二、三ヶ月くらいで終わる人が多いらしいんだけど、ワタシはリアンとセットだったから、半年も面倒みてもらっちゃった」
へへっと幸せそうにルスが笑う。だが、『二人だったから』という理由からくる期間の延期ではなかった事が、“記憶”の一片から読み解けた。どれだけ頭の中に“知識”を得ても、それを使いこなせる器ではなかった為、教育係となった者が短期集中で育児みたいな行為を担っていたみたいだ。
言葉、会話、人との接し方、食事の方法。それ以外にも、数多くの何もかもを一から教えて貰わねばならぬ状態にあったが、ルスもリアンも楽しそうだった。
(…… なんか、ムカつくなぁ)
ルスの色々な『初めて』を教育係だった奴に奪われていく。とっくに過ぎ去った日々の“記憶”なのに、なんだか段々腹が立ってきた。
「ルートラが教育係ではなかったんだな」
「ん?うん、よくわかったね。ルートラもたまに顔を出してはくれてたけど、基本的に彼は、異世界への勧誘者だから」
迂闊な発言をしてしまったが、ルスは気にもしてない。細かい所まで気になる悪い癖を持っているような奴じゃなくて助かった。
「ワタシ達の教育係になってくれた人は、実は今の魔塔主なの。その…… “知識”を持っても、上手く心や体が動かなくて出来ない事が多かったから、一番偉い人が見守ってくれたみたい」
ルスが気不味そうに笑った時、今まではずっと顔に影が出来る程すっぽりと真っ白なフードを被っていた教育係が、そのフードを脱いだ時の記憶が僕の中に流れてきた。ゆっくりとした仕草で脱ぎ——
「彼の名前は、“レアン”。リアンの名前は、あの人の名前をもじってつけさせてもらったんだよ」
ルスの“記憶”でしかないはずの男と何故か目が合う。
その瞬間、僕には魔塔主・“レアン”の正体がすぐにわかった。今の僕を十歳程更に年老いた様な容姿をしているが、あの金色の瞳は間違いない。間違えようがない。
——黒竜・“リュークェリアス”。
何でアイツが、ルスの側に居たんだ。