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「紗英、お前もこれ以上恥ずかしい思いをしたくなければさっさと立ちなさい」
手を貸す気なんてさらさらないと言わんばかりの父親からの冷たい声音に、紗英が恐る恐る則夫を見上げて……。
則夫が、今まで見たことのない冷ややかな視線で自分を見下ろしていることに気が付いて「パパ……」と声を震わせた。
「……お前のような嘘つきな恥知らずを娘に持った覚えはない」
だが、則夫はまるで手のひらを返したように紗英へ告げると、さっさと踵を返して。
「これ以上貴様の茶番に付き合う意味があるのかどうかは分からんが、ここで逃げてはこちらに非があると言われ兼ねんで胸糞が悪い。高嶺尽。貴様の言い分とやらを全て聞いてやろうじゃないか」
今まで尽のことを上司ということで敬ってきたのが嘘のように、上から目線な言葉を投げ掛けてさっさとフロアを出て行ってしまう。
紗英がそんな父親の後を追ってよろよろと立ち上がると、横野と風見がそれに続いて動き始めて。
最後に残った尽は、なおもこちらをチラチラと見つめている社員らに向き直った。
「お仕事中に大変お騒がせしました。難しいかも知れませんが、皆さんはこのまま業務を続行してください。後ほど今後のことについてこちらから指示を出しますので、それまでは今手元にある仕事をこなしながら待っていて頂けますか?」
綺麗な所作で深々と頭を下げた尽に、社員らが一層ざわついて。
だが、その中の一人が「分かりました」と答えたのを皮切りに、皆が仕事へと戻っていく。
尽はそれを確認してから、管理本部総務課を後にした。
***
尽が自分の執務室へたどり着くと、直樹が一組の男女を連れて来ていて。
「何で……あなたたちがここに……いる、の……よぅ」
江根見紗英がその二人を見て呆然と立ち尽くしていた。
「浅田先生がどうしても江根見紗英さんに直接伝えたいことがあるとおっしゃったので、お連れしたまでです」
紗英の質問に律儀に答える直樹へ、尽が「手配してもらった例の方は?」と問うと、「秘書室で待機して頂いています」と返る。
秘書室は尽たちの持つ取締役室と直接行き来できるよう中扉で繋がっている。
そこへ通してあると言うのなら、折を見て執務室へ入って来てもらうのに、都合がよい。
尽は小さくうなずくと、「とりあえずどうぞ」と執務室の入り口を開けて皆を中へ促した。
尽としては今すぐにでも一連の悪事のリーダーとも言える江根見則夫を断罪したいところだったのだが、浅田夫妻――というか、泣きそうな顔をした旦那を従えた奥方のほう――が、今から江根見紗英に突き付けるであろうことも、恐らく則夫に少なからぬダメージを与えるはずだと考えて。
今まで散々天莉を苦しめてきた一番の害悪が誰かを考えた時、どう考えても紗英だという思いが捨てきれなかったと言うのもある。
そこを完膚なきまでに叩いておくのも悪くないと思ったのだ。
離れていても、鼻を突く紗英の香水の香りには正直辟易させられる。
執務室に彼らを入れた後は、しばらく換気が必要になるだろう。
天莉と一緒にいる時には一切感じないニオイに対する嫌悪感に、早く色々始末を付けて、愛しい天莉を抱きしめたいと思ってしまった尽だ。
半月近く天莉を休ませているのは、もちろん心身ともに傷ついた天莉を休息させてやりたい気持ちもあったけれど、何よりもこの悪意の塊みたいな女に、天莉を会わせたくなかったのだ。
直樹の調べで、紗英が天莉から奪い取った横野博視と別れたがっていたことや、妊娠が虚偽なことは割と早くから分かっていた。
バカなくせにずる賢い眼前の女が、居もしない胎内の子を始末すると言う名目で何らかのアクションを起こすことは想定の範囲内だったのだが、思いのほかその動きが鈍くてヤキモキさせられたのを思い出す。
江根見則夫にとっては、娘の妊娠が嘘だったのは想定外だったらしいが、そこへ更なる追い打ちを掛ければ、娘を切り捨てようとしている則夫にとっても痛手になるだろう。
***
尽は皆を執務室の中央付近、吊り下げ型の照明が設置されている会議机の方へ誘うと、着席を勧めた。
大きめの長方形をした会議机は、短辺に一人ずつ、長辺に五人ずつの、計十二名が座れるようになっている。
尽が上座に当たる机の短辺部に陣取ると、皆が思い思いの位置に向かった。
そんな中にあって、直樹は尽の斜め後ろに立ったまま。
どこへも座るつもりはないらしい。
いつもなら何も指示しなくても秘書室へ入って茶の準備などをするところだが、その必要はないと判断したのだろう。
尽から見て右手側手前から江根見則夫、風見斗利彦、横野博視、江根見紗英が、左手側博視の前に浅田・夫、紗英の前に産婦人科医を営んでいる浅田・妻が腰かけた。
(……父親の隣に座ると思ったが避けたか)
てっきり、紗英は則夫の隣へ行くものと思っていたのだが、尽の予想に反して父親からは一番離れた席――博視の隣へソワソワした様子で落ち着いたことに少し驚かされた尽だ。
(父親に突き放されたのがそんなにショックだったか)
今まで虎の威を借る狐状態で父親の庇護下で好き放題やって来た紗英にとって、常に自分へは甘々だった父親から向けられた侮蔑の眼差しは相当こたえたと見える。
(まぁ父親の後ろ盾がなければただの小娘だしな)
いつも天莉を小馬鹿にしていた――と直樹からの報告で知っていた――江根見紗英のしゅんとした様子に、尽は眼鏡の奥の瞳を人知れず細めた。
(いいザマだな)
若い女子社員相手に大人気ないが、それが尽の率直な感想だ。
そうして恐らくあえて紗英や博視の前を陣取る形で着座した浅田医師からこれから告げられるであろう言葉は、更に紗英を追い詰めるはずで。
(しばらく高見の見物といくか)
尽は浅田医師に視線を送りながら、「では浅田先生のご用件からお聞きしましょうか」と宣言した。
***
大きめの会議机を挟んでいても、浅田夫妻と江根見紗英との間にはピリピリとした空気が流れている。
「江根見紗英さん、先日、そちらにいらっしゃる貴女の婚約者の横野博視さんへはお話させて頂いたのですが、貴女がうちの主人・浅田富士雄と不貞行為を働いている証拠をわたくしが持っていることはご存知ですか?」
眼鏡越しにまっすぐ、真正面に座る紗英を見詰める浅田医師の眼差しには、静かだけれど明確な怒りが感じられた。
腰まである少し白髪の入り始めた黒髪を、飾りっ気のない黒いゴムで一つ結びにした浅田医師は四十路半ばくらいだろうか。
お世辞にも外見に気を遣っているようには見えなかったが、患者には真摯に向き合って来たんだろうと言う雰囲気が、そこはかとなくにじみ出ている女性だった。
顔の真ん中で存在を主張する太めの黒ぶち眼鏡が、野暮ったさに拍車を掛けているように見えるけれど、きっと眼鏡を外せばかなりの美人だろう。
だが、今はそんなことどうでもいい。
ぱっと見は大人しそうなその女性が、静かな声音で問い掛けているにも関わらず、全身から怒りのオーラが感じられることに、尽は密かに戦慄した。
日頃大人しい人間と言うのは、怒らせると怖い。
まさに、いま目の前にいる浅田医師のように。
「江根見紗英さん、黙っていらしては分かりません。――婚約者の横野さんからはその辺りのお話はすでにお聞きになられたかしら?」