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朝から蝉が全力で鳴いていて、部屋の空気が少しだけ飴みたいに重かった。扇風機の首振りが戻ってくるタイミングで髪がふわっと浮いて、ああ、今日は家だとぜったい宿題が進まないやつだ、と確信する。


「読書感想文、まだ真っ白なんだけど」


机の上の原稿用紙が、わざとらしいくらいの白さでこっちを見ている。

わたしは椅子を回転させて立ち上がり、部屋の隅にぶら下げてあったカメラのストラップを首にかけた。


「図書館、行こ。涼しいし、静かだし、進む。多分」


リビングに降りると、キッチンから母が顔を出した。

「図書館行くの? 水筒持っていきなさい。静かにするのよ」

「はいはい、ちゃんとするよ」

「“ちゃんと”の基準があなたの“ちゃんと”じゃありませんように」

「耳が痛い」


ソラ(愛犬)が玄関でお座りして、行く気まんまんの目をしている。

「ごめん、ソラは入れないんだよ。帰ったら散歩ロングコースね」

「わん(不服)」みたいな小さな声。なでて誤魔化す。


外は白い光。アスファルトから湯気が出てるんじゃないかってくらいの熱。

麦茶の入った水筒を肩にかけ、メッセージを飛ばす。


〈図書館いこ〉

〈いく。冷房に用がある〉(瑠衣)

〈宿題ゼロ行進に終止符を〉(彩葉)


待ち合わせの十字路まで行くと、二人はすでに日陰に立っていた。

「感想文、どれにする?」

「課題図書の“ぼくらの青い地図”。タイトルは好き」

「内容は?」

「……これから好きになる予定」


市立図書館の自動ドアが開く瞬間、体にまとわりついてた夏が、するっと剥がれ落ちた。

ひんやりした空気。紙とインクの匂い。

「天国」

三人で同時に呟いて、笑いを飲み込む。静かに、静かに。


閲覧席をひとつ確保して、各自の本を積む。

わたしは課題図書と、参考にしようと同じ作家の別の本、それから「はじめての読書感想文」と書かれた、やけに頼もしい一冊。

カメラは——机の端っこへ。ストラップをしおり代わりに挟みかけて、慌てて引っ込めた。


「ね、美空」

「うん」

「カメラ、今日は“飾り”でね」

「知ってる。図書館は静かに」

そう言いながら、本棚の列の向こうで天窓から落ちる光が、床にきれいな四角を作ってるのに気づいた。

光の四角って、撮りたくならない? なるよね?(ならない?)


……カシャ。


音、出た。

わたしの指と心臓が同時に固まる。

周りの席で二、三の視線がこちらに流れてきて、司書さんのやさしい「シー」が空気を撫でた。


「……ごめんなさい(無音設定)忘れてた……」

「今日いちの山場、もうきたね」

「序盤でクライマックス解消したから、ここから静穏です」


水筒の蓋を開ける音が、普段より十倍大きく聞こえる。

ボールペンを落として、床で軽く跳ねる音に自分でびくっとする。

椅子を少し引いたときの、キュッという控えめな悲鳴にも、即座に謝りたくなる。

図書館の静けさって、音がゼロだから静かなんじゃなくて、みんなが「小さくしよう」としてる気配でできてるんだな、と妙に納得した。


ページをめくる指先を意識して、文字を追う。

「主人公のぼくは海の見える町で——」

そこまで読んで、ふと視界の端で何かが動いた。


「……今、茶色い影が横切った気がしない?」

「気のせいでしょ」

「いや、あれ、猫の尾っぽの速度だった」


言ったそばから、カウンターの奥で小さな騒ぎが起きた。

「茶色い子が、雑誌コーナーへ」「窓、閉めておいてね」

司書さん同士のひそひそ声。わたしの耳だけにスローモーションで届く。


「猫、いる」

「……いる、ね」

「撮りたい(小声)」

「こら」


でも、猫って、光の四角の中で伸びするんだよ。きっと今もどこかで陽だまりを見つけて、気持ちよく丸くなって——

脳内に「猫 in 図書館」の決定的瞬間が、勝手に現像される。


「五分だけ。忍者みたいに行って戻る」

「戻れ」

「大丈夫、図書館は走りません(標語)」


カメラは完全サイレントに切り替え。シャッター音は夢のなかへ。

足音を最小にして、本棚の列と列の隙間を覗いていく。

百科事典の陰、検索端末の台の下、新聞コーナーの丸椅子の脚の間——いない。

児童書の棚のあいだをのぞくと、画用紙で作られた大きな動物の切り抜きの向こう側を、ふっと茶色い尻尾がのぞいた。


「いた」


声にならない口の形で友だち二人に合図する。

三人で目配せして、左右からゆっくり包囲……のつもりが、わたしの靴紐が棚の角に引っかかった。

バランスを崩しかけて手を出した先に、本が二冊。ぐらり。

「……っ」

倒れる前に、すれすれで支える。右手一本で。今日いちの筋トレ。

胸の鼓動が、耳の後ろで跳ねた。


「だから言ったでしょ」

「今のは、世界一静かな大立ち回り」


猫はというと、新聞コーナーのほうへ軽くダッシュしていて、椅子の影にするりと入っていく。

すばしっこい。音がしないの、猫もちゃんと読んでるのかな。


「すみません、館内は走らないでね」

司書さんが微笑みながら、空気ごと靴底の音をやわらかくしてくれた。

「はい……すみません……」

心の中のスピードを一段落とす。猫の気分の速度で歩く。

たぶん猫って、速いときも速いけど、遅いときは床の模様を一枚ずつ味わうみたいに遅い。

今は、そういう時間だ。きっと。


新聞ラックの後ろ、光と影の境目で、丸いものがゆっくり上下した。

茶色い背中。呼吸。

わたしたちは互いの肩を軽くつついて、位置につく。

瑠衣が目で「今?」と問う。わたしは「まだ」を返す。

息を一枚だけ薄くして、構える。

画面の四角の中、光の縁を少し入れて、猫の輪郭に薄いハイライトをまとわせる。

焦点が合う。

押す。

——音はしない。でも、胸の奥にだけ「カシャ」と鳴った。


その瞬間、猫がこちらを見た。

金色みたいな瞳がまっすぐ刺さって、次の瞬間、ふわっと体がほどけるように伸びをした。

前足、後ろ足、背中。あくび。

そして、近くにいた小学生の肩に、ぴょん、と軽く乗った。


「わっ」

小さな声と、小さな笑い。

司書さんがそっと近づき、抱き上げる。猫は、抵抗しない。ただ、目だけが高いところから図書館を見渡している。

外のほうへ運ばれていく背中に、わたしたち三人はほんの少し会釈した。


席に戻ると、机の上の原稿用紙は相変わらずしらっと白い顔をしていた。

でもさっきと違って、書きたい言葉が一個だけ、浮かんでいる。


「“静けさは、音がないことじゃない。誰かの小さな気づかいの重なりだ”」


ペンを持つ手が、さっきより軽い。

わたしはタイトルの欄の上に、まず小さく今日の日付を書いた。

その下に、さっきの猫の写真を思い出して、一行目を始める。


——と書き出そうとしたとき、彩葉がそっと水筒を差し出した。

「のど、乾いてるでしょ」

「ありがと」

冷たい麦茶が喉を通って、胸の熱をひとつ運んでいく。


気づけば夕方。

図書館の外は、昼の白から、少しだけオレンジが混ざった色に変わっていた。

玄関でスリッパを返しながら、さっきの司書さんが微笑む。

「今日はありがとうね。静かにしてくれて助かったわ。猫ちゃんも無事よ」

「はい、こちらこそ……すみませんでした……(最初の一回とか色々)」

「最初の一回で気づけるの、立派よ」


外に出ると、空気がほんの少し甘く香った。

沈んでいく太陽が、図書館のガラスに細い弧を描いている。

夏の一日の長さが、ふいに、やさしく思えた。


家に帰ると、ソラが玄関で前足をぱたぱたさせて歓迎してくれた。

「ただいま。ちょっと猫とお友だちになった」

「……わん?」

焼きもちなのか、鼻でわたしの手をつついてくる。かわいい。


キッチンでは母が麦茶を注いでいた。

「静かにできた?」

「した……つもり。最初にちょっとだけ、やらかしたけど」

「“ちょっとだけ”があなたの“ちょっとだけ”じゃありませんように」

「耳が二回目に痛い」


スマホに転送しておいた写真を見せる。

窓際の陽だまりで目を閉じる茶色い猫。光の四角。薄い埃の粒。

母は「わぁ」と小さく息を吸って、肩の力を抜くみたいに笑った。

「いいじゃない。感想文、それで書いたら? “図書館の猫と静けさの話”」

「……それ、もらった」


わたしはテーブルにノートを広げて、さっきの一行目の続きを書き始める。

「図書館の静けさは、みんなの小さな“シー”と、誰かの足音を小さくする気づかいでできている。今日、そこに一匹の猫が迷い込んだ。猫はとても静かで、でも目が笑っていた——」


ソラが椅子の下で丸くなって、尻尾をときどき机の脚にコツンと当てた。

その小さな音も、なんだか文章を進ませる合図みたいで、わたしは笑いながらペンを走らせた。


夜、窓の外で風鈴が一度だけ鳴った。

今日は涼しい、とまではいかないけれど、午後のひりひりはちゃんと去った。

お風呂上がりの髪がまだ少し濡れているうちに、写真を一枚プリントして、ノートの隅に貼る。


「よし」


明日、清書。

明後日、部室でみんなに見せる。

その次は、また別の静けさを探しに行こう。夏はまだ、長いんだし。


——久遠美空の図書館騒動。

感想文は、猫のおかげで、なんとかなった。

静けさにも、写真にも、ちょうどいい“音”があるって、覚えた日。

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