時也が倒れてから
いくつもの夜と朝が過ぎ去った。
日々
少しずつ
体力を失っていく時也の姿を
アリアはただ
見守ることしかできなかった。
夜通し付き添っても
彼が息をする度に
胸が引き裂かれるように痛む。
薄暗い寝室の中
時也は布団に伏したまま
起き上がることすら
できなくなっていた。
痩せこけた体は
骨と皮ばかりで
かつての逞しさは
微塵も残っていない。
青白い顔に浮かぶ冷や汗
呼吸は微かに喉から漏れ出し
命の灯火が今にも消えそうだった。
アリアは時也の枕元に腰を下ろし
そっとその頬に手を伸ばした。
触れると、まるで氷のように冷たい。
その感触に胸が締め付けられ
自然と涙が込み上げてくる。
時也の瞼が微かに動き
力なく目を開けた。
その鳶色の瞳は
光を失いかけている。
「⋯⋯私の⋯所為、だ⋯⋯」
アリアは震える声で呟いた。
「すまない⋯⋯すまない⋯時也⋯⋯」
その痛ましい言葉に
時也は僅かに微笑んだ。
震える手を持ち上げ
アリアの頬に触れようとするが
力が入らない。
それでも
残った僅かな力を振り絞り
何とか身体を起こそうとする。
「⋯⋯アリアさん⋯⋯」
掠れた声が
微かな温もりと共に耳に届く。
腕を広げようとしたが
その腕は力なく下がってしまう。
それでも
アリアの名を呼び
無理に笑顔を作ろうとしていた。
アリアはその無理をする姿を見て
胸が張り裂けそうになった。
感情を殺し続けてきた筈なのに
その仮面が崩れそうになる。
彼の胸に縋り付き、顔を埋めた。
「⋯⋯私を⋯置いて逝くなど⋯⋯
赦さない⋯⋯」
低く震える声が、微かに漏れる。
痩せこけた体を抱きしめると
骨の感触が鋭く伝わってきた。
それが
さらにアリアの胸を引き裂き
心の奥底から
絞り出すような懇願が漏れた。
(身勝手だと⋯⋯お前に怨まれようと
⋯⋯私は⋯⋯)
その時、アリアの背中に異変が起こる。
痛みが走り
焼けつくような感覚が
背筋を駆け上がる。
細い背中から
皮膚を破り裂きながら
炎の翼が拡がっていく。
焼け焦げた肉の匂いと共に
紅蓮の光が部屋を満たした。
「⋯⋯アリアさん⋯やめ⋯⋯っ」
時也が読心術で意図を悟り
制止しようとする。
だが
身体が言うことを聞かず
激しい咳が込み上げた。
そのまま血を吐き出し
アリアの肩を赤く染める。
「⋯⋯っ、⋯ぐぅ⋯⋯っ」
胸の奥から溢れる血が
止まらない。
アリアはその血を受けながらも
無表情のまま
時也の身体をそっと布団に戻す。
「⋯⋯お前を⋯失いたくない」
呟きながら
炎の翼から
一枚の羽根を抜き取った。
その羽根は刃のように鋭く輝き
炎の光が鮮烈に宿っている。
アリアは一瞬だけ瞳を閉じ
そして――
迷いなく
その羽根を自分の胸に突き立てた。
「⋯⋯っ⋯⋯」
鈍い音と共に
羽根が肉を貫き、胸を穿つ。
赤い鮮血が迸り
痛みによる痺れが全身を駆け巡る。
だが、アリアは表情一つ変えない。
羽根を握り締め
そのまま下へと引き裂き
肉が裂け
肋骨が露わになっていく。
その肋骨を掴み
鈍く、不快な音を発しながら
折り広げられた。
脈打つ心臓が
赤く輝きながら露わになる。
アリアはその心臓を掴み取り
無表情のまま引き抜く。
その手の中で脈動する
その心臓を見下ろしながら
静かに呟いた。
「⋯⋯こうまでしても⋯私は死ねん
本当に死すべきは⋯⋯私と彼奴なのに」
自嘲するように微かに笑い
その冷たい瞳で
自らの心臓を見つめた。
露わになった胸には
既に新たな心臓が脈打ち始めている。
皮膚が再生し、元の状態に戻っていくのを感じながら、アリアは虚無を見つめ続けた。
「⋯⋯お前を⋯失いたくない。
死にたい⋯⋯
それが、赦されないのなら⋯⋯
お前と共に⋯生きていたい⋯⋯
時也⋯⋯⋯すまない」
その言葉には
これ以上ないほどの
覚悟と絶望が混ざり合っていた。
血に染まる部屋の中
アリアは崩れそうな心を
必死に支えながら
ただ時也を見つめ続けていた。
愛している――
その感情が
呪いのように胸を締め付け
再び痛みを与え続ける。
それでも
アリアは
この愛を手放す事だけはできなかった。
アリアは
に持った自らの心臓を見下ろしていた。
赤黒く脈打つそれは
まるで命を象徴するかのように
規則正しく収縮を未だ僅かに
繰り返している。
だが
その鮮やかな赤は
今の自分にとって
ただの呪いの塊だった。
(⋯⋯こうでもしなければ
時也を⋯⋯)
冷たくなった時也の身体をそっと支え
顔を覗き込む。
痩せこけた頬
乾いてひび割れた唇
微かに開いたままの瞳が
焦点を失っている。
その胸は浅く上下しているが
今にも呼吸が途切れそうなほど弱々しい。
アリアは決意を固めると
手に持った心臓に
静かに齧りついた。
歯が硬い筋肉を引き裂き
血が口の中に溢れ出す。
不死の血の濃厚な鉄臭さが鼻を突き
咥内に流れ込んでくる
異物感が強烈だった。
だが、迷いは⋯⋯もう無い。
ゆっくりと
噛みちぎった心臓の一部を咀嚼し
アリアは時也の唇に口づけた。
乾いた唇の感触が
まるで朽ち果てかけた花のようで
さらに胸が締め付けられる。
そのまま
心臓の肉片と血を口移しで流し込む。
(例え⋯⋯怨まれても⋯⋯)
口内から喉へと滑り落ちる血が
時也を不死にする事を願いながら⋯。
時也は反射的に喉を動かし
異物感に軽く噎せた。
細かく震える睫毛が僅かに揺れ
眉間に苦しげな皺が寄る。
アリアはもう一度
心臓の欠片を口に含み
同じように口移しで与えた。
その度に
時也は喉を詰まらせるように咳き込み
血を飲み込む度に
身体を強ばらせる。
「⋯⋯アリアさん⋯もう⋯いいです⋯⋯」
時也が掠れた声で囁いた。
アリアは驚き
すぐにその顔を見つめた。
時也は力無く微笑み
淡く潤んだ瞳でアリアを見ている。
「無駄⋯⋯です。
不死鳥は⋯⋯僕を不死に⋯する気も
ましてや⋯生かす気も⋯無いのでしょう」
アリアの炎の翼が揺れる中
時也には不死鳥の影が見えていた。
その影が
まるで嘲笑うかのように
時也を見下ろしている。
アリアの背中から漂う
その禍々しい存在感に
時也はうっすらと笑った。
「⋯⋯僕は⋯⋯貴女と出逢えて
共に過ごした時間が⋯⋯
この人生で⋯一番⋯幸せ、でしたよ。
だから⋯⋯もう、ご自分を⋯⋯
傷付けないで⋯ください⋯⋯」
その声が
アリアの胸に深く突き刺さる。
時也が
本当にそう思っているのか――
疑いと恐怖が交錯する中
時也の震える手が
アリアの胸元に優しく触れた。
そこには
すでに再生した
新しい心臓が脈打っている。
「もう一度⋯⋯接吻、を⋯⋯」
時也の願いに
アリアは一瞬だけ迷った。
不死鳥の血が効かない――
それが
何よりも絶望的な事実だった。
ー病すら癒せないー
ー時也を不死にする事もできないー
ー本当に、時也は〝幸せ〟だったのか?
アリアの中で
その答えは出なかった。
だが
時也にはその不安を悟られないよう
アリアは心の声を必死で殺した。
彼の瞳に
自分の絶望を映してはいけない。
それが、アリアの最後の意地だった。
アリアは時也の軽い身体を抱き起こし
優しく胸に引き寄せた。
その骨ばった体が
まるで硝子細工のように脆く
壊れてしまいそうで
力を込められない。
そっと顔を近付け
時也の唇に重ねた。
その接吻は
言葉にできない
愛情の全てを託すような
長く、深いものだった。
乾いた唇の感触が
アリアの心を切り裂く。
触れ合う度に
時也がどれほど弱っているのかが
伝わってきた。
それでも
時也はその接吻を受け入れ
僅かに目を細めた。
アリアの頬に触れる時也の指先が
氷のように冷たくなっている。
(⋯⋯お前を失いたくない⋯時也)
その想いを込め
アリアはもう一度唇を重ねた。
時也の呼吸が
微かに温かさを取り戻しているように
感じられた。
だが
それはきっと一時のもの――
アリアはそれを悟りながらも
時也を抱きしめ続けた。
その後
時也が息を引き取ったのは
数日後の夜だった。
最後の瞬間まで
アリアは時也を抱きしめ
微かに残る命の鼓動を感じ続けていた。
時也が安らかな寝顔で
微笑んだまま息を引き取った瞬間
アリアの表情にも
その心の内にも
全ての感情が消え去った。
夜明けが近付き
部屋に薄明かりが差し込む中
アリアはただ
静かにその場で
時也を抱きしめ続けていた。
どれだけ呼びかけても
もうその声は届かない。
もう、二度と――。
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