テラーノベル
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母さんに頼まれたのは、ほんの軽い調子だった。
「今日、ついでがあったらさ、お土産に和菓子買ってきてくれる?」
ついでなんか無い。というか、俺は今日ずっと家でだらだらして終わる予定だった。大学の課題も終わってないし、バイトも見つかってない。就活はまだ先だが、大学三回生になれば嫌でも考えるようになるらしい。
俺はその“らしい”を、だんだん現実味のあるものとして感じ始めていた。
けれど母さんは強制力の強い人だ。いつもの、あの、軽い笑顔に見えて実は断れない圧。
「三崎家の男は、こういう時にチャッと動くもんでしょ?」
俺が断れば十倍返しで小言が返ってくる未来が見えたので、渋々、財布を掴んで家を出たというわけだ。
◆
京都。
大学がこの街にあるせいで、もう慣れたはずの空気のはずなのに、観光客の多いエリアに足を踏み入れると、いつも少しだけ肩に力が入る。
母さんから送られてきた地図を辿ると、“観光地の喧騒”から一本外れた小道へと入った。
人通りが少ない。わざと時間を外したような静けさ。
通りには、古い町家をそのまま店舗として使っている店が並ぶ。漬物屋があり、骨董品屋があり、雑貨屋があり……そのどれもが風景の一部として溶け込んでいる。
その先の角、小さな木札の看板だけが目印の店があった。
澄菓庵――
白地に薄い藍色で書かれた文字は、簡素で美しい。
観光客がわざわざ足を止める華やかさはない。
でも、通りを歩く地元の人なら、一度は目に留めるだろうような、そんな存在感があった。
「ここ……か」
店の前で、俺は小さく息を吐いた。
母さんに頼まれただけの店。
でも、なぜだか足を踏み入れるのに少し勇気がいる。
そんな場所だった。
引き戸には、控えめな文字で「営業中」と掛け札が下がっていた。
俺は躊躇いながらも戸に手を掛け、静かに引いた。
◆
入った瞬間、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
砂糖と小豆と、ほんの少しだけ炭火の香りが混ざっている。
店内は思ったより広くない。
正面には桜の木で作ったような柔らかな色の棚があり、手のひらに収まるような和菓子が整然と並んでいる。
どら焼き、最中、わらび餅。
焼き印の押されたどら焼きは色艶が良くて、思わず唾を飲む。
形はどれも素朴なのに、手間と丁寧さが一つ一つに詰まっているようだった。
そして――。
店の奥、作業台の前に立つ店主を見て、俺は息を呑んだ。
てっきり、年季の入った職人がいると思っていた。
背中が丸くなったおじいさんとか、手の皺に歴史が刻まれたおばあさんとか。
そんなひとを想像していた。
だがそこにいたのは、まるで別世界からここに迷い込んできたような、若い女性だった。
長い黒髪を低い位置で一つに束ね、姿勢が真っ直ぐで、指先まで所作が綺麗だった。
白くてすべすべした肌が、店内の柔らかな照明に溶ける。
瞳はアーモンド色で、静かな湖面みたいな深さを湛えていた。
綺麗な人だ――。
気づけばそう思っていた。
女性は俺に気づくと、ふわりと優しい笑顔を浮かべ、 「いらっしゃいませ」と、鈴の音みたいな声で言った。
心臓が少し跳ねた。
慌てて咳払いで誤魔化す。
「えっと……土産用の和菓子、買いにきたんですけど」
「贈り物ですね。でしたら、こちらでおすすめをお詰めしますね。予算や個数はございますか?」
手を止めず、落ち着いた声でそう言う。
俺は少し戸惑いながらも答えた。
「予算は……2000円以内で、個数は6個くらいで」
「かしこまりました」
女性――あとで知ることになるけれど、深雪澄乃という――は、慣れた手つきで和菓子を選び、丁寧に箱に詰めていく。
その手の動きが、妙に、目を引いた。
無駄がない。
けれど急いでいるわけでもなく、一つひとつに心を込めるような、あたたかいリズムを刻んでいる。
そんな最中だった。
「……何か、悩みごと抱えてますか?」
突然の言葉に、俺は財布を落としそうになった。
手は止めないまま。
声は穏やかで、押しつけがましさが無い。
だが、核心に触れてくる。
「え、いや……初対面で……なんで……」
言葉が詰まる。
けれど口が、勝手に動いた。
「大学生なんすけど……バイト先も見つけられてないし、就活とかもそろそろ考えなきゃで……。なんか、社会に出るのってムズいな……って……」
言ってから、しまった、と思った。
何でこんな人に愚痴ってるんだ、俺。
でも澄乃は、ただ静かに聞いていた。
否定も、慰めも、焦らしもしない。
ただ、受け止めてくれるみたいに。
和菓子が詰め終わると、そっと箱を閉じ、綺麗な紐をかけ、ビニール袋に入れて俺に手渡した。
「……そうですか。大変でしたね」
「え……」
「でも、貴方ならきっと大丈夫です。そんなに心配することではありませんよ」
なぜそんなことが言えるのか。
俺の事情なんて何も知らないのに。
でも、その声は妙に真っ直ぐで、嘘が無かった。
会計を済ませ、店を出る。
戸を閉めるまで、澄乃は変わらず柔らかい笑顔で 「ありがとうございました」と言った。
外に出た瞬間、俺は首を傾げた。
貴方なら大丈夫――。
どうしてそんな風に言い切れたんだろう。
◆
その日から、俺は何度もその店に足を運ぶようになった。
目的なんて曖昧だった。
大学の帰りに、気づけばあの静かな通りへ向かっていた。
理由を言うなら――そう、焼き菓子が美味しかったから。
どら焼きも、最中も、素朴なのにどこか特別で、食べると胸の奥が軽くなるような感覚があった。
「普通の和菓子なのに、普通じゃない」
そんな不思議な味。
そして、澄乃の声。
店の空気。
あの優しい“間”が、いつの間にか心に残るようになっていた。
やがて、大学の友人からこんな噂を聞いた。
「澄菓庵の店主、いろんな謎を解くんだってよ」
俺はその瞬間、最初の日の問いかけを思い出した。
――何か悩み事抱えてますか?
あれはただの偶然じゃなかったのかもしれない。
そう思った時、俺は気づいた。
“知る人ぞ知る和菓子屋”には、まだ知らない顔がたくさんある。
店主・深雪澄乃という女性のことも、 妹の天音という少女のことも、 そして自分がこれから関わることになる出来事も――。
その時はまだ、何も知らなかった。
ただ気づけば、俺の足はまた、あの店へ向かっていた。
コメント
1件
面白い展開になりそう……!