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潮の匂いが風に混じって、部屋の中まで届いていた。窓のカーテンがふわりとなびくたびに、今日は海日和だと体の奥が勝手にうずく。私はベッドの上で伸びをして、ぱっと跳ね起きた。鏡の前で前髪を整え、白いTシャツと短めのデニムパンツに着替え、足元は履き慣れたスニーカー。バッグには日焼け止めと麦わら帽子、ハンカチ、替えの靴下。首から下げたカメラのひんやりする重みが胸の前で落ち着く。
「美空ー! 朝ごはん冷めちゃうわよー!」

階下から母の声。台所からカタカタと食器の音がして、リビングに降りると、父は新聞を広げ、弟の陽翔はトーストをかじりながら、愛犬のソラにパンの耳を狙われていた。


「今日は海なんだって?」

父が新聞の上から顔を上げる。

「うん、写真部のみんなでピクニック。ちゃんとお弁当も持ってくよ」

母はラップで包んだサンドイッチを紙袋に詰めながら言った。

「風、強いみたいだから気をつけなさいよ。袋、結んでおきなさい」

「だいじょーぶ! サンドイッチは私が命に代えても守るから!」

「そんな命の使い方やだよ」

陽翔が笑って、ソラが「ワン」と相槌みたいに鳴いた。


水筒、クッキー、ビニール袋、絆創膏、ポケットティッシュ。バッグを閉める直前に、机の上の充電器に繋ぎっぱなしのバッテリーを見つけ、あわてて放り込む。玄関で靴を履くと、ソラが鼻先で私の膝をつついた。

「お留守番だよ。夕方、帰ったら散歩いこうね」

ソラの耳をなでると、茶色い耳がぴょこんと揺れた。


外に出ると、朝の光はもう真夏の色で、白く眩しい。風鈴の音が軒下からころんと転がって、通りの向こうにはうっすらと海の水平線が見えた。私は走るように角を曲がり、集合場所の公園へ向かった。


「おはよー!」

松並木の向こうのベンチでは、瑠衣と彩葉が待っていた。瑠衣は麦わら帽子を両手で押さえ、彩葉はサングラスを額に上げて歯を見せて笑う。

「美空、早っ。集合時間の二十分前だよ?」

「だって待ちきれないんだもん」

私が息を整えるより先に、クーラーボックスを抱えた悠真と、バスタオルを肩にかけた蒼介が歩いてきた。

「よっす。氷、完璧」

「忘れ物なし」

「蒼介、無言でチェックリスト読まないで。緊張する」

「緊張する要素どこ」


五人で歩く海までの道は、白い光と潮の匂いでいっぱいだった。庭先からは風鈴が鳴り、アスファルトには陽炎が揺れる。

「日焼け止め、貸して」

「はいはい」

手のひらに出しすぎた日焼け止めを瑠衣に分け、私の指が滑って、うっかりカメラのストラップに白い跡を作ってしまう。

「ぎゃっ、ストラップがミルキー色に!」

「拭けば大丈夫だよ。ほら、ウェットティッシュ」

蒼介の差し出した小さな袋で丁寧に拭くと、ストラップは元の黒に戻った。心臓が一拍分、余分に打つ。


砂浜に出ると、一面の光。水平線がまぶしくて、思わず目を細める。波のきらめき、カモメの声、足元に熱い砂。全部が「夏!」と叫んでいるみたいだ。

「海〜!」

彩葉が両手を広げて叫ぶ。

「お前の声のほうが海より響いてる」

悠真が笑って、私はカメラを構えながら二人のシルエットを一枚。砂はふかふかで、歩くたびにふくらはぎに負荷がかかる。それも気持ちよかった。


レジャーシートを広げ、日傘を一本立てる。クーラーボックスは日陰へ。私は母が結んだ紙袋の紐を、さらに蝶々結びで二重にして胸の前に掲げた。

「瑠衣、撮って」

「準備写真だね。海を背景に、笑って」

私は袋を掲げたまま満面の笑み。

——バサッ。

音がして、視界が白く動いた。


「きゃっ!」

突風。紙袋はふわりと浮かび、私の手が空を切った。

「待ってー!」

私は反射的に走り出す。砂がスニーカーの中に入って、じゃりじゃりいう。袋はぴょん、ぴょんと跳ねながら、波打ち際へ一直線。あと少し、あと少し。手を伸ばす。波が寄る。

「ダメーー!」

私の指先の一つ上、袋が波に触れかけた瞬間、横から伸びた影がそれをさらった。

「はいはい、セーフ!」

彩葉が軽々と袋を掲げる。

「ナイスキャッチ!」

「ふぅ……心臓に悪いわ」

シートに戻って袋を開くと、サンドイッチの端が一つだけ、しっとりしていた。海の匂いが少しだけする。

「……やっちゃった?」

「まぁ、半分は無事だよ」

私は苦笑いで袋を抱え直す。

「五秒ルールって海にも適用されるの?」

悠真が口角を上げる。

「砂浜でそれ言う?」

蒼介が笑い、全員がつられて笑った。笑い声にかき消されるように、カモメが上空で一声鳴いた。


日傘の影に腰を下ろして、お昼の準備をする。瑠衣は紙コップとナプキン、彩葉はレジャーシートの端を靴で押さえ、私はサンドイッチの安全地帯を確保するように配置を工夫する。

「その置き方、城壁みたいだね」

「守りを固めてるの」

「敵は風?」

「あと、君たち」

「えっ、僕ら?」

「昨日『部室に貼る』って言った人が何か言ってる」

笑いながら、クーラーボックスを開けると、冷気がふわっと広がった。透明なカップに入ったフルーツゼリーが並び、下には大粒の冷やしたブドウがころころ転がっている。

「秘密ってこれ?」

「塩スイカもあるぞ」

悠真が得意げに取り出したのは、カットされたスイカに小さな塩の袋がセットになったもの。

「わー、最高!」

「塩、かけすぎ注意な」

蒼介の低い声。私は頷きながら、ゼリーの蓋を慎重にめくる。

——プシュッ。

勢いよく外れて、蓋の内側のしずくが私の頬にはねた。

「うひゃ!」

「もう、すぐドタバタするんだから」

瑠衣がハンカチを差し出してくれる。冷たい甘さに笑いがほんの少しこぼれた。


サンドイッチは、海に触れなかった分から順に配る。私はしっとりしたやつを自分の皿に置いて、端のほうだけをちょんと味見してみた。

「……うん、しょっぱうまい」

「新ジャンルだね」

「“海味サンド”」

彩葉と悠真が無茶なネーミングで笑わせる。口の端についたマヨネーズを指で拭って、私は缶の上でカメラを少し高く持ち上げた。白いパンと、夏の光。ピントを手前に合わせると、背景の青がほどけるみたいに柔らかくなる。


食べ終わる頃、風がまた少し強くなった。日傘がきしむ。彩葉が支えに立つ。

「押さえとく」

「私も」

私が反対側の骨を握った瞬間、風がぐわっと吹き抜け、日傘が裏返ってひっくり返った。

「ぎゃー!」

「スパイ映画みたいなシーン出た」

悠真が笑う間に、蒼介が一歩で近づき、骨を折らないようにふっと力を加えて元に戻す。

「はい、復旧」

「さすが、頼りになる」

「頼りにしすぎない」

淡々とした声なのに、少し照れているように見えた。


午後は撮影タイム。瑠衣は波しぶきを狙い、彩葉は岩場のカニを追いかける。私は砂浜を走る子どもたちの足と、波打ち際で跳ねる光を撮った。

「美空、あっちのパラソル、色がかわいいよ」

「ほんとだ」

瑠衣に肩をつつかれ、私がカメラを構えると、パラソルの前を白い影が横切った。

カモメだ。

「え、ちょ、近!」

カモメはピクニックの匂いを嗅ぎつけたのか、私の持っていたクッキーを目がけてふいっと降下してきた。

「こらー! 襲撃やめてー!」

私が慌ててクッキーを後ろ手に隠し、身をかがめると、カモメは高度を上げて去っていく。頭上から一声、「カァ」でも「ギャァ」でもない、あの独特の声。

「今の、狙ってた」

「クッキー、人気者」

「お行儀のいいお客さんじゃなかったね」

心臓がどきどきするのを笑いにまぎらわせて、私は息を整えた。


「美空、その帽子、飛ぶよ」

蒼介の声がした直後、麦わら帽子が頭からふわっと抜けた。

「うわっ!」

帽子は風に持ち上げられて、砂浜をころころ転がる。私は三度目の全力疾走。足が砂に取られて前のめりになりかけた瞬間、彩葉が進行方向に回り込んで、帽子を足でストップ。

「キャプテン彩葉、ファインプレー!」

「助かった?」

「助かった!」

帽子を受け取って被り直すと、内側に砂が少しだけ入っていて、かすかにジャリっと音がした。


「よーし、次はみんなでジャンプ写真撮ろう」

瑠衣が三脚を取り出して、セルフタイマーをセットする。構図を決めて、私たちは並んだ。

「三、二、一——ジャンプ!」

シャッターの音。砂がふわっと舞い上がり、私の足は少しだけもつれた。

「ねぇ美空、ジャンプ、膝から曲げると上に飛べるよ」

「わかった、もう一回!」

二回目。私の足元で、ちいさなカニが「ガンバレ」とでも言うように横歩きしていく。

三回目。風が吹いて、タイミングが微妙にズレた。

「もう一回!」

五回目。

「……もう、膝が笑ってる」

「いい運動」

三脚を片付けながら、瑠衣が写真の確認をする。

「お、三回目のがいちばんきれい。美空、目をつぶってるけど」

「ええー、そこ大事!」

全員で画面を覗き込み、笑い転げた。


クーラーボックスから、悠真が冷たく冷えたペットボトルを配る。

「それ、カメラの近くに置かないでね。結露こわいから」

「はーい」

私はカメラを日陰に避難させ、タオルでそっとレンズを磨く。日焼け止めの白い指紋が今度はつかないように、慎重に、慎重に。


午後の光はだんだんと角度を変え、砂浜の影が長く伸びていく。足の裏の熱が少し落ち着いて、風がほんのわずかに涼しくなった。

「そろそろ、片付ける?」

「うん。その前に、もう一枚だけ、海」

私は波打ち際に立った。足元に寄せる波が、つま先をくすぐる。白い泡がほどけて、黒い砂がキラキラ光る。シャッターを切ると、ピッと控えめな音。

「……あれ、電池」

バッテリーの残量が一本。さっきの充電器を思い出し、ひやりとした。

「やば、楽しくて撮りすぎた」

「モバイルバッテリー、いる?」

蒼介が無言で差し出す。

「すごっ、出てくると思った!」

「美空が忘れてる顔をしてた」

私は笑って受け取り、少しだけ充電した。小さなランプがやわらかく点滅する。


片付けの最中、日傘がまたキシキシと鳴り、――次の瞬間、今度は骨ではなく支柱が砂に深く刺さって、傘ごと倒れこんだ。

「わわわ!」

「砂に投げた槍みたいになってる」

「シャフト救出!」

四人がかりで支柱を抜き、砂を払い、たたみ直す。通りすがりのライフセーバーが笛をくわえたまま親指を立ててくれて、私たちも親指を返して笑った。


帰り道、砂の熱が弱まり、海は金色に染まりつつあった。松林の影が長く伸びて、その間を風が通り抜けていく。

「今日のベストショット、どれ?」

「美空が帽子追いかけてるやつ」

「やめて!」

「じゃあ、ジャンプのやつ」

「目つぶってるんだってば」

「しょっぱいサンドイッチ」

「それは事件写真」

笑いながら歩く私たちの後ろで、波の音がずっと、同じテンポで続いていた。


公園に戻って解散する前、全員でベンチに腰を下ろした。瑠衣がスマホで今日の写真をざっとスライドショーにする。青が多くて、白が多くて、笑っている顔がやたら多い。

「美空、ほんと楽しそう」

「楽しかったもん」

「サンドイッチも楽しそうだった」

「塩対応されたけどね」

言った瞬間、全員が妙にツボにはまって、しばらく笑いが止まらなかった。


家に帰ると、玄関でソラが全力の尻尾ふりふりで迎えてくれた。砂で少し白くくすんだスニーカーを脱ぐ。ソラが鼻先で私のバッグをつついた。

「今日はね、海に行ってね、帽子飛んでね、サンドイッチがね」

「ワン?」

陽翔が廊下から顔を出す。

「美空、砂だらけ。玄関で叩いてから入って」

「はいはい」

カメラをテーブルに置き、バッグから紙袋を取り出すと、袋の底にはパンくずが一つだけ残っていた。私はそれをそっと指先でつまみ、窓の外を見た。夕方の光は柔らかく、風鈴の音は昼より低く聞こえる。


テーブルに座って、今日の写真をゆっくりスクロールする。白い波、飛ぶ帽子、裏返る日傘、笑う友達、そして——ちょっとしょっぱいサンドイッチ。どの一枚にも、風が写っている気がした。画面の隅っこで光る砂粒のようなものを見つけるたび、胸の奥で何かがかすかに鳴った。カリッ、と、ほんの一瞬。


「ねぇソラ、また行こうね。今度はみんなで……あ、でも犬は砂まみれになるか」

「ワン」

ソラは首をかしげ、私の膝に顎をのせた。毛が少しひんやりしていて気持ちいい。

私は背もたれに体を預け、目を閉じる。波の音はもう聞こえないのに、まだ足の裏が少しだけ熱かった。


明日になれば、今日の砂は靴の中から消えて、写真はクラウドに上がって、笑い話は誰かが別の笑い話に重ねる。それでも、あの瞬間のまぶしさは、きっとずっと胸のどこかに残る。サンドイッチの袋を追いかけて走った足音や、みんなの声や、風のいたずらで裏返った日傘の手触りまで、ぜんぶまとめて。


私はスマホで一枚だけ、今日のベストショットを家族グループに送った。私たちが少しバラバラな高さで跳んでいる写真。私は目をつぶっているけれど、みんなが笑っているから、これでいい。

「海、楽しかった?」

台所から母の声。

「うん。ちょっとしょっぱかったけど」

「なにそれ」

「美空比“夏の味”」

母が笑い、陽翔がよくわからなそうに肩をすくめた。ソラは尻尾で床をトントン叩く。


窓の外で、風鈴がもう一度鳴った。私は心の中で、そっと決める。次は、帽子にクリップを。サンドイッチはジップロック二重。日傘は風向きに対して斜めに設営。

準備万端にしてもたぶんまた何かが起きるのが、私たちの日常。だからいい。だから、また行きたくなる。


——久遠美空の海ピクニック、これにて一件落着。次は、何を落っことすんだろう。落っことす前に、ちゃんと笑えるようにね。

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