「ずっとぴりぴりぴりしてます?」首席焚書官アンソルーペは他の焚書官たちから離れて一人、打ち棄てられた巨大な偶像を仰ぎ、語り掛けるように呟いた。
神か怪物か、救済機構の信徒たちには判別のつかない石の像だ。畏れか、願いか、いずれにせよそれらは過ぎ去った時代に失われ、長い歳月を慈悲も畏敬の念も持たない風雨に晒されて丸みを帯び、恐れ知らずの青々とした苔に覆われている。虎と蝙蝠と、他にも幾つかの獣が混ざっていそうな混沌極まる姿の像は、この森に入ってから四体目を数えていた。
「アンソルーペ。てめえはこれが何か知ってんのか?」と答えたのは偶像でも他の誰でもなく、虚空、あるいは虚無だった。深く暗い孔の底から響くような声だが、軽薄にも聞こえる。その声はアンソルーペの頭の中でだけ響いているのだった。
「さ、さあ、神か、巨人か何かですか? ガレインの神話のてて天に座するガユロ神の偶像とか。もしくはかみ神々に打ち滅ぼされた巨人のに似姿とか」
「神はこれほどでかくねえし、巨人はこれほど矮小じゃねえよ」と虚無は吐き捨てるように答える。
「みて見てきたようにい言いますね」
虚無はそれに対し沈黙で答えた。代わりに別の、ずっと親密な話し声が頭の外から聞こえる。アンソルーペは押し黙り、偶像の踵の陰に身を隠した。
「首席は元護女だったそうだ」と焚書官の男が呟く。
「元護女から首席? かのシャリューレ首席焚書官以外にもそんな人がいたのね」と焚書官の女が囁く。
部下の交わす自分に関する噂に怯え、数歩退きつつも離れられず、アンソルーペは聞き耳を立てる。
精強な軍馬も思うように駆けられない歪な根の蔓延る森の只中で、焚書機関第四局の焚書官たちは休息を取っていた。開けた木々の間だが真昼の太陽の明かりも温もりもほとんど届かない、秋を迎えて色づき始めるも未だ茂った葉叢の下、古代の偶像が聳えている。
「いや、それ以上だよ」と焚書官の男が自慢げに否定する。「シャリューレは護女としてはてんで駄目で資格を失ったところを焚書機関に拾われたらしいけど、アンソルーペ首席は護女としても優秀ながら引き抜かれたんだそうだ」
「そんなことってあるの?」焚書官の女の声に幾分棘が含まれる。「焚書機関と違って、聖女会は聖女の直轄組織よ?」
「アンソルーペ首席はそれくらい例外的な優秀さなんだって、総長が話してたんだぜ?」
「ケイヴェルノ総長ご自身が? それなら本当のことなんでしょうね」
決して本当とは言えないことをアンソルーペ自身は知っている。嘘とも言えないその真相の全てを知っているのはアンソルーペともう一人だけだ。
「こちらにいらしたのですね、首席。どうしてこんな隅っこに? 食事は済まされました?」そう言ってから、次席焚書官にして副官ドロラも物陰の向こうの噂話に気づき、耳を傾ける。「ああ、ケイヴェルノ殿が広めた自慢噂話ですか。相変わらずの溺愛っぷりですね。まあでも部下から敬意を得て悪いこともないでしょう」
「そそその分、期待もか過じょう剰なんです。わた私には手に余る仕事ばかり。そもそも『一〇一白紙文書』を届けるなんて第四局の仕事じゃないでしょう?」
「そんなことはありません。ガレイン半島は一触即発ですからね。今や西沿岸諸国のほとんどが大王国の植民市になっています。少数精鋭で機動力が売りの武闘派、つまり我々にうってつけですよ」
「でもまほ魔法少女に奪われました。せっかくせっかく私たちがくく苦労して手に入れたまま魔導書を」
「それも込みの策じゃないですか。次善の策ですが作戦は成功。ますます評価が上がってしまいますね、首席」皮肉っぽいもの言いながら敬意を払った笑みを浮かべるドロラの黒い瞳が、アンソルーペの緑の瞳を覗き込む。
アンソルーペは負けじと言い返す。
「そもそも、ままど魔導書を所有している者を討滅するこそことこそが第四局の使命なのに」
「仕方がありませんよ。魔法少女は焚書機関の一部局が対応するには大きすぎる存在になってしまったんです」
「まほ魔法少女狩猟団にはは入りたかったですか?」
「いいえ?」とドロラは不思議そうに答える。「新設の特務機関にも興味はありますが、そちらへの異動はたとえ総長になれたとしても出世とは言えませんね。やはり常設機関を率いなければ。……推薦の件、忘れないでくださいよ、首席」
「忘れないですよ、ももちろろん」
できれば優秀なドロラにはずっと副官でいてもらいたかったが、そういう話も既に何度もしていたのだった。優秀な右腕の、右腕に留まるつもりのない意思は固い。
突如、ドロラが立ち上がり、森の来し方を見つめる。それはアンソルーペも見慣れた、探知の魔術に何かが引っ掛かった時の振舞いだ。
「またせき石像?」とアンソルーペ。
「おそらく、いいえ。そもそも我々は立ち止まっていますし、あちらから近づいて来ています。人間大、それに集団です」
「何でおそらおそらくなんですか?」
「集団で歩いてくる小型の石像ならば見分けがつきませんし」
「と、とにかく」アンソルーペも立ち上がり、大きく息を吸い込み、空気も震える鋭い命令を発する。「総員! 警戒態勢! 東から接近する集団あり!」
焚書官たちが声を掛け合い、慌ただしく態勢を整える。調和的に扇状に展開し、威圧的に剣を抜き放つ。
しばらくして落ち葉を踏みしめて近づいてくる者どもの気配が届く。更に鋭く、罪人の血の味を知る刃のように警戒態勢が研ぎ澄まされる。
「待て。警戒には及ばん」とアンソルーペたちに迫ってきた者たちが鷹揚に忠告した。
その老齢ながら張りのある声にアンソルーペは踵が跳ねる。それは焚書機関が習得した魔導書の管理、そして――恩寵審査会には疎まれているが――調査研究を主とする第一局の、首席焚書官にして焚書機関総長、アンソルーペの祖父ケイヴェルノの声だった。そして直ぐに姿も現す。
「きききききききき聞いてた?」アンソルーペは思わずドロラを睨みつける。
「まさか。聞いていたなら報告しますよ。……何の用でいらしたのでしょう?」
全焚書官を束ねる焚書機関総長の象徴、魔導書の根滅を誓った最初の祝福、角の燃える牛を象った鉄仮面の男が率いている。
集団といえば集団だが、十人にも満たない少数だった。そして僧兵としては精鋭ではない。第一局の焚書官は魔術には通じた選良だが直接魔導書探索に赴くことはなく、戦闘に優れているのは叩き上げの現総長ケイヴェルノくらいのものだ。
「さすがアンちゃん!」重々しいケイヴェルノの声が羽根のように軽やかに響く。「休息地の選定、接近者の看破、そして対応。どれをとっても見事な指揮だ!」
アンソルーペは硬い表情で苦笑いを浮かべる。
「そそそれで、一体何のごご御用でいらしたのですか?」アンソルーペはいつもの通りおずおずとケイヴェルノに尋ねる。「そそそ総長自らガレイン半島までやって来るなんて。こん今回の作戦とかん関係があるのですよね?」
「うむ。関係あるといえばあるが、ないといえばない」
裁定者の如くはっきりとした物言いをする人間だ、と祖父を評価していたアンソルーペは、明らかな嘘を吐かれるよりも虚を突かれた気分になった。
ケイヴェルノが率いてきた焚書官たちも休息に入り、今はケイヴェルノとアンソルーペが、祖父と孫娘ではなく、焚書機関総長と第四局首席焚書官として膝を突き合わせている。一応、後方に副官ドロラも控えてはいた。
「どどどどういうことですか? わわわ私たちに関係あることなのですよね?」
「うむ。アンソルーペは分かっておるか? この作戦が、救済機構が魔導書を利用する初の事例だということを」
意思ある魔導書で構成された魔法少女狩猟団のことを言っているらしい。
アンソルーペは首を傾げる。そんなはずはない。これほど大規模な利用は初めてだろうが、そもそも祖父が普段から魔導書の利用に愚痴を零していたことを孫娘はよく知っていた。
「つまり、公式に、だ」とケイヴェルノは付け加える。
「そそそうなのですか? そそそうだとして、そそそれが何か?」
「分からんか? 焚書機関は何のためにある? 何故設立された?」
「それはかつて魔導書がさい最たる教敵に認定され、とと特務機関として設立され、今なお道半ばにあるために実質的にじょじょ常設機関となっているのですよね?」
「第三聖女ラムゼリカの時代のことですね」とドロラが付け加える。
「その通りだ。これは異例の事態だ。救済機構が最たる教敵を利用するなど。今後はどうなると思う? あるいは最たる教敵認定が取り消されるかもしれん。となれば焚書機関はどうなる?」
「かかか解体ですか?」
「いや、そうはならんだろう。利用するのだから今後も探索は必要となるはずだ。だが最たる教敵の最たる脅威として活動できない以上、権限が縮小される可能性はある。あるいは焚書機関を下部組織に置くのが恩寵審査会の狙いやもしれん。何より魔導書の根滅という大義を手放すなどあってはならんことだ」
「だだだから、つつつまり、私に魔法少女を討てということですね?」
ケイヴェルノは目を丸くし、そして幸せと喜びに満ちた笑みを浮かべる。
「さすが我が孫娘! 察しが良いことこの上なしだ。つまるところ聖女猊下は魔法少女に強い危機感を持っておられる、魔導書以上に、な。が故に、御目を曇らせ、魔導書を使ってでも討伐したい、と考えておられるわけだ。そこで焚書機関が魔法少女狩猟団に先んじて奴を討てば、魔導書など災厄を起こす以外に能のない邪悪な魔法道具にすぎないことを猊下に思い出させるだろう。しかし越権行為だと思われては敵わんからな。魔導書所有者討伐を主任務とする第四局ならば言い訳も立つということだ」
「だだだ第三局でも可能なのではありませんか? 彼らは焚書そのものが主任務なのですから申し開きの余地もあります」
「いいや、だからこそ駄目だ。魔法少女狩猟団は魔導書自体が構成員だ。その存在自体が第三局に対立する。にもかかわらず魔法少女討伐を優先すれば、それはあからさまに魔法少女狩猟団に対する越権行為となるわけだ」
「一方第四局は魔導書そのものではなく、魔導書所有者に対する実行部隊」とドロラが呟く。「魔法少女を討つのに何の気兼ねも必要ないわけですね」
「その通り。つまりアンちゃんにしか出来ないという訳だ。権限的にも、もちろん能力的にもな!」
瞬く間にケイヴェルノ率いる第四局という雰囲気に様変わりした。それでいて、ケイヴェルノ自身は第四局首席焚書官である孫娘の辣腕を声高に評価し、吹聴するのだ。
アンソルーペとドロラは皆から少し離れた場所で、倒木に腰掛けて言葉を交わす。
「こここうしてむちゃ無茶な仕事をお祖父ちゃんに押し付けられるわけです」アンソルーペは震える声で愚痴を零す。
「別に悪いことではないじゃないですか。地位の高い祖父に将来を嘱望されるだなんて、平凡な父母のもとに生まれた私としては羨ましい限りです」
「でででも、祖父のなな七光りとか、みみみ身贔屓とか、やっかみとか。そそそういうのに晒されるのは私なんですよ。それにどう考えても、かか過大評価ですから。ドロラちゃんから祖父に話してくれませんか? 副官として苦情を報告すればいいんです」
「嫌ですよ! そんなの」
思いのほか強く拒否され、アンソルーペは驚き怯む。
ドロラは出世願望のある野心の強い人物であるが故にアンソルーペは思い違いをしていたことに気づかされる。たとえ出世の利になっても告げ口のような姑息な真似はしないのだ。
謝ろうとしたその時、大地を太鼓に見立てたような重々しい地響きが鳴る。地面がびりびりと揺れ、木々が揺すられ、木の葉が騒めく。どこに隠れていたのか多くの鳥が飛び立って、森全体が賑やかになった。
部下の報告を待たずとも事態の急変と詳細は一目で理解できる。偶像の一つが意思を持つ者のように動き出し、敵意を持つ者のように暴れ始めたのだ。次いで動き始めた時の状況を何人かに報告させるが、動き出すその瞬間まで特に異変はなかったのだという。
手を抜けば祖父の自分に対する評価も下がるだろうか、とアンソルーペの脳裏に邪な考えがよぎるがすぐに考え直した。
「総員! 戦闘態勢! 他の石像に注意しつつ動く石像を破壊せよ!」
アンソルーペは命令を発しつつ、燃え盛る角戴く羊の鉄仮面を被り、棘球付きの鎚矛を振りかざしてどの焚書官よりも先に偶像へと躍りかかる。そして抉り取るように偶像の膝を叩き砕く。
しかし砕いたのは表面だけであり、偶像の膝から下はまだ辛うじて繋がっていた。生物ならば関節を破壊された時点で立つこともままならないだろうが、偶像はなお重質量の足を振り上げ、拳を振り下ろす。
「おいおいおい! なんだこりゃあ!」羊の鉄仮面の首席焚書官が下卑た声で怒鳴る。「ただの鎚矛じゃねえか! 聖典はどうしたんだよ聖典は!」
「まだ大聖君から賜っていません」とドロラが答える。そしてさらに文句を聞かされる前に先んじる。「ええ、分かっています。申請してから半年、異例ですがその理由も聞かされていません」
現世代においては聖女が兼ねている大聖君は、そもそも長らく公に姿を見せていない。その理由をアンソルーペは知らない。
羊の鉄仮面の奥で舌打ちをし、命令する。
「てめえら! こいつの足を止めろ! ドロラはさっさと封印を探せ!」
「やっていますが、特定できません。どうやら動いているみたいです」とドロラは答える。
「封印がか!? そんなの聞いてねえぞ!」
第四局の長は文句を言いつつも、焚書官たちによる偶像脚部への破壊や魔術による拘束に合わせ、動きの鈍った石像をよじ登り、頭部から上半身にかけての破壊を試みる。祝福された力を持たないただの鉄の塊を使ったとしても、首席焚書官の力をもってすれば石像は砂山のように破壊されるのだった。
しかし石像は這いつくばるようになってもなお動き続ける。そして勝算のないことを悟った獣のように暴れるのを止め、一方向へと進み始めた。
「どこに逃げるつもりだあ!? そうはさせねえよ!」
叩きつけられた鎚矛の一撃が偶像の腰を粉砕し、上半身と下半身を分かつ。
「違います! 別の石像に移るつもりです!」
ドロラの忠告と同時に石の怪物の上半身から人間大の何かが一人でに削り出される。ほんの一瞬の出来事だが、そうして生み出されたのは神話に伝わる英雄の如き美丈夫であり、石の膚の下に血の通っているかのような精巧な彫像だった。そうして冷たく固く美しい像は駆け出す。その先には確かに別の石像が聳えていた。
「同じだってえの!」
がなり立てながら第四局首席焚書官は棘球付の鎚矛を振り上げ、逃げる石像目掛けて勢いよく投擲する。巨大な偶像の元へ駆け寄る石像は縋り付くように手を伸ばし、しかしその掌に鎚矛が直撃した。そうして勢いのまま倒れ、その場で動かなくなる。掌の中から現れた三日月形の札には金槌と鑿を持つ伽藍鳥が描かれていた。
「なるほどな。石工の使い魔ってところか。他の使い魔よりも自在に石を加工できるってわけだ」その札を摘まみ上げると同時に、ドロラによって鉄仮面を脱がされる。「あっ! てめぇ――」
「素晴らしい手際ですね。さすが首席です」とドロラが淡々と称賛する。「総長だけではなく、皆がそう思っていますよ」
「……うん。ああありがとう。ででも……。あっ!」
崩れた偶像の残骸とアンソルーペ、ドロラの元へケイヴェルノがやってくる。その第一声を想像するのは難しくない。
「さすが――」
「ドロラちゃ、副官のお陰で封印の位置が判明しました! みみみ見ての通り、助けられてしまいました。すすす既に私なんかよりも首席に相応しい実力を持っていると言えます!」
「ふうむ、そうかね?」ケイヴェルノは品定めするようにドロラを眺める。
「滅相もございません。私は今現在のお役目、副官としての役割を全うしたのです。自信はありますが、今回のことで首席としての能力を測るに足る活躍をしたつもりはありません。むしろ優秀な首席の能力を如何に滞りなく活かしていただくか、が副官としての最大の任務だと考えております」
「やはりさすがアンちゃんだというわけだ!」とケイヴェルノはいつも以上に感極まった様子で褒めちぎり始める。
「ううう裏切者」とアンソルーペはこっそりと恨めしい眼差しをドロラに向けて小さく呟く。
「お互い様です。自身の評価を下げるために私を利用しようとしましたよね?」と返される。
アンソルーペは何も言い返せなかった。