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第19章:泡の外音(完全版)
🎼 一人きりの準備期間
放課後の音楽室。窓の外には初夏の光。
律は、泡日記から生まれた旋律を反復していた。
鍵盤の上では完璧な指運び。
けれど、一音だけ“聖名の言葉”が宿った場所があって――
そこだけ、何度弾いても指がほんの少し遅れた。
「目に見えない泡に、触れたような気がした」
―その一節だけが、律の音の終わりに張り付いて離れなかった。
音楽コンクールに応募する決意も、曖昧なままだった。
「これは僕の音じゃない。だから怖くない」
そう言い聞かせて提出した譜面は、曲名のみ記載されていた。
“泡の外音”――泡日記の余白からすくい上げた名。
📅 音楽コンクール当日
会場は、古い劇場を改装した音楽ホール。
天井のシャンデリアが、泡のように揺れて見えた。
律は他の出場者と交わることなく、控え室の端にいた。
楽譜ケースを開いても、視線は一点を見つめ続けた。
舞台袖では、係員の呼び声が響く。
「次、エントリー番号12番、“泡の外音”――」
律は無言で立ち上がる。足音が絨毯に吸われて、
空気の粒が、皮膚の表面を撫でて通り過ぎていった。
🎹 本番の演奏
観客席の灯りが落ち、スポットライトが律の後頭部に白く差す。
舞台中央のピアノが、黒い泡のように静かに待っていた。
律は一礼の代わりに、鍵盤を見つめるだけ。
演奏開始――
最初の数小節は機械のように精密。
でも観客席には、なぜか空気の“揺れ”が生まれていた。
曲の中盤、無音の数拍。そこに聖名の残響が満ちた。
ラスト2音にさしかかる直前、律は一瞬目を伏せる。
そして――
最後の音が、まるで泡の外に出た瞬間のように震えた。
響きがホールの天井に届いたそのとき、
律の指がほんの僅かに吸い込まれるように沈んだ。
🏆 表彰とざわめき
表彰式。律の名が呼ばれると、会場にざわめきが起きた。
「名前が書かれていなかった“泡の外音”、受賞者は――雨宮律くんです」
演奏部門・個人表現賞。
審査員の講評にはこう記されていた:
「これは譜面に書かれていない“揺れ”のある音でした。
聴かせない音のはずなのに、私はそれを聴いてしまったのです。」
律は拍手の渦の中にいながら、自分の音が“泡の外”に届いたことを初めて理解する。
それが“誰かに触れられる”ことだったと知るのは、ほんの微細な痛みと温かさだった。