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🫧第20章「泡の縁で、すこしだけ立ち止まる」
泡図書館の第四階層、空調の音すらしない静けさの中、律と聖名は並んで歩いていた。
ふたりの足音だけが、泡に吸収されるように淡く響いている。
聖名は今日、泡図書館に持ち込むための薄いノートを持ってきていた。
特に書くことがあるわけではなく、「なんとなく今日に残りそうな音」がある気がしたから、とのことだった。
律はそれを聞いて、「うん」とだけ返した。
ふたりは、分類棚の奥にある“未整理泡”のコーナーで立ち止まった。
そこには誰の記録とも言えない、泡だけがぽつぽつと浮いている。
聖名が指先で一つを選び、律が手元の端末で読み取りを始める。
泡の中には、誰かの朝の描写が入っていた。
歯を磨いていた時、鏡に映った自分の顔が少し「知らないやつ」っぽく感じた、という記録。
特別なことは何も起きていない。でも、少しだけ引っかかる。
聖名が小さく笑った。
「これ、知ってる気がするな。たぶん何回か同じ朝があるんだよ」
律は返す。
「泡って、なんでも似てくるもんね。でもちょっとずつ違ってる」
ふたりはそれ以上会話を続けず、次の泡へと目を移した。
誰のでもない記録を読む行為は、ふたりにとって会話のようでもあり、沈黙のようでもあった。
帰り際、聖名が律に聞いた。
「ねえ、今日の音って、どんな感じだった?」
律は少しだけ考えてから答えた。
「…図書泡がふわっと浮いてる時の、すごく小さな揺れ。それが音っぽかった」
聖名は、ノートにその言葉を書いた。
その日が記録されたわけではなかったけれど、ふたりはそれを“残した”という感覚だけは持っていた。
泡の縁で、すこしだけ立ち止まる――そんな一章だった。