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翌日、ホームルームの最初に、
西尾先生から進路希望調査票の回収宣言があった。
「おーい、お前ら。
昨日配った調査票、今日が一旦の締切な。
“仮”でいいから書いて出せ。
白紙で出していいのは、担任の許可をもらったやつだけだ」
そう言いながら、こっちを見る。
教室の何人かが、ニヤニヤしながら視線を寄こした。
“許可もらったやつ”が誰か、分かりやすすぎる。
「うわ、特例認定されてる」
小声で桐谷が言って、笑いをこらえる。
「うるさい。
桐谷はさっさと出し終わってんだろ」
「もちろん。昨日のうちに出した」
さも当然という顔。
そういうところも、やっぱり少し腹が立つ。
先生が前の列から順番に回収していく。
プリントを渡したあとの席から、ひそひそ声が飛び交う。
「とりあえずさ、第一志望だけ埋めとけばよくね?」
「俺、理由のとこ“家から近いから”しか書いてねえ」
「将来やってみたいこと、の欄が一番つらいんだけど」
後ろのほうから、そんな会話が聞こえてくる。
――みんな、そんなに“やってみたいこと”あるわけじゃないんだよな。たぶん。
頭では分かっていても、
「第一志望」を書き終わった紙を先生に渡しているやつらを見ると、
それだけで何か一歩先に進んでいるように見えた。
俺の机には、昨日先生と書き込んだ紙がある。
『やりたくないこと』
体力仕事メインは無理。
本ばっかり読む仕事もきつそう。
それ以外は、まだ真っ白。
「安藤は、どうすんの?」
プリントを前に回したあと、村上が聞いてきた。
「どうするって?」
「いや、その……。
一応さ、どの辺狙うとか、決めといたほうが楽じゃね?」
楽、ねえ。
「村上、いつ決めたの? 志望校」
「二年の冬くらいかな。
模試の判定見ながら、“この辺なら現実的かな”って」
「あー……そういうもんか」
俺が曖昧に返すと、村上は少し言いにくそうな顔をした。
「別にさ。
やりたいことなくても、どっかには行けると思うよ。
行ったあとで見つかるパターンもあるし」
「それ、西尾先生には言えないだろ」
「だから今、お前に言ってんだろ」
俺の返しに、村上は苦笑いを浮かべる。
「でもさ、安藤は“どこでもいい”って顔じゃないじゃん。
なんか、変にこだわりそうなタイプ」
図星過ぎて、言葉に詰まった。
そう、俺は「どこでもいい」とは言いたくない。
かといって「ここがいい」もない。
その中間に挟まって、身動きが取れなくなっている。
◇
放課後。
廊下を歩いていると、ちょうど隣のクラスの前で人だかりができていた。
「お前、どこ書いたん?」
「理系のやつ、多くね?」
「推薦の枠、もう埋まりそうってマジ?」
教室の中では、担任が前に立って何か説明している。
「じゃあ、文系志望が二十三人、理系が十五人な。
就職希望と専門学校は、あとで進路指導室と連携するから──」
そんな声が、ドアの隙間から漏れ聞こえてきた。
――人数、ちゃんと集計されてるんだな。
その数字に、自分の名前はない。
当たり前なんだけど、それが少しだけ現実を突きつけてくる。
「安藤、帰らないの?」
声をかけてきたのは桐谷だった。
「……ちょっと覗いてただけ」
「ああ、他のクラスの様子、なんとなく気になるよね」
桐谷は俺の隣に並び、
人だかりの向こうをちらっとのぞいた。
「ねえ。
“夢ある人”って、そんなに多くないと思うよ?」
突然そんなことを言われて、思わず横を見る。
「桐谷は、ある側じゃん」
「うん。私はたまたまね。
でもさ、クラスの紙に“保育”とか“看護”とか“公務員”とか書いてる人も、
本当にみんな“これしかない!”って思ってるわけじゃないよ。
“まあ、これかな”って選んでる人も、絶対いっぱいいる」
言いながら、桐谷は自分の胸のあたりを軽く叩いた。
「……それでもさ。
“まあこれかな”って言えるの、十分すごいと思うけど」
俺がそう返すと、桐谷は少し笑って、前を向いたまま言った。
「じゃあさ。
安藤は、“これは絶対に嫌だな”ってもの、なに?」
「出たよ、その質問」
思わずため息が漏れる。
昨日、西尾先生に言われたのと同じことを、
なぜか桐谷にも聞かれるとは思わなかった。
「力仕事と、本読みっぱなしの仕事は無理。
あと、ずっと人の前でしゃべるのもキツい」
「それ、めっちゃちゃんと考えてるじゃん」
「いや、先生に無理やり考えさせられたんだけど」
そのやり取りに、桐谷はクスクス笑った。
「いいじゃん、それで。
やりたいことがないなら、やりたくないこと決めるの、全然アリだと思うよ。
それすら分かんないまま、適当に決めちゃう人もいるんだから」
「……そういうもんかな」
「そういうもんだよ」
桐谷はそれだけ言うと、
「じゃ、バイト行くから」と手を振って、階段を降りていった。
バイト。
俺は、まだ一度もしたことがない。
◇
家に帰ると、
テレビの前に父が座っていて、
母が夕飯の準備をしていた。
いつも通りの光景。
ただ、今日はテーブルの上に一枚だけ見慣れない紙が置いてある。
市から配られた「奨学金制度のお知らせ」だった。
「学校から持って帰ってきたの、それ?」
母がふと尋ねる。
「いや、知らない。
学校のやつじゃないと思うけど」
「お母さんが役所でもらってきたの。
ほら、今どきはさ、奨学金借りて大学行く人も多いって言うし」
「ああ……」
詳しく話を聞くのが怖くて、
生返事しかできない。
父がチャンネルを変えながら口を開いた。
「お前の学校、国公立行くやつ多いのか?」
「どうだろ。そこそこ?」
「国公立行けたら、親としては助かるんだけどな」
軽く笑いながら言うその一言が、
予想以上に重かった。
「お父さん。
プレッシャーになるから、その言い方はやめなさいよ」
母がすかさず突っ込む。
「いや、別に“絶対行け”って話じゃないって。
俺のときなんか、大学行けるだけありがたかったんだぞ」
そうやって自分の昔話に入っていく父の声を、
半分くらいしか聞いていなかった。
「敦、ご飯できたら呼ぶから、それまで自分の部屋にいていいよ」
母のその一言で、俺は救われた気になって、
二階の部屋に逃げ込んだ。
◇
机の上に、学校から持ち帰ったバッグを置く。
中から進路希望調査票を取り出し、
昨日書いた「やりたくないこと」の欄を見る。
『力仕事メインはたぶん無理』
『ずっと本を読む仕事もきつそう』
今日、桐谷に話した内容を、
もう一本足してみる。
『大人数の前でしゃべる仕事も無理そう』
書いてから、
「これ書いたら先生にまた何か言われるだろうな」と想像して、
ひとりで笑ってしまう。
でも、ペンを止めて気づいた。
――やりたくないことを書いたところで、
“やりたいこと”の欄はまだ真っ白のままだ。
紙の左上には、
「第一希望」の枠がでかでかと残っている。
そこに何かを書くイメージは、
まだ全然湧かない。
机の引き出しから、別のメモ帳を取り出した。
先生に見せる紙とは別に、
自分用の“落書き帳”みたいなものがほしくなったからだ。
そこに、思いつくまま書いていく。
『朝早すぎる仕事はつらい』
『夜勤はできれば避けたい』
『ずっと同じ場所にいるのは飽きそう』
『かといって、出張多すぎるのもしんどそう』
――我ながら、ワガママだな。
書けば書くほど、自分のめんどくささが浮き彫りになる。
でもなぜか、その“めんどくさい自分”を紙の上に並べるのは、
少しだけ気持ちよかった。
やりたいことは分からない。
けど、やりたくないことなら、いくらでも出てくる。
「これ、ちゃんとやれば、逆に選択肢絞れるのかな……」
メモ帳を眺めながら、ぼそっとつぶやく。
スマホを見ると、
クラスのグループトークが流れていた。
『進路希望出したー?』
『一応出したけど、どうせ変わる気しかしない』
『就職希望のやつ、うちのクラス何人だ?』
『おれ、専門行くか就職かで迷い中』
――あ、そうか。就職って選択肢もあるのか。
今さらのように、それに気づく。
大学か専門か、みたいな二択でしか考えていなかったけど、
最初から働くやつだっている。
メモ帳の端に小さく書き加えた。
『そもそも進学するべきなのか?』
自分で書いたくせに、その一文がやけに重く見えた。
やりたい仕事もない。
やりたい勉強もない。
それでも進学する意味は何なのか。
――たぶん、その答えを見つけるために、
これからいろんな大人の話を聞かされるんだろうな。
西尾先生の顔を思い浮かべる。
「やりたいことがないまま進路希望出すやつなんて、山ほど見てきたからな」
昨日のその一言を思い出すと、
胸の奥の「自分だけ取り残されてる」感覚が、
ほんの少しだけ薄くなった。
紙の真ん中あたりに、
とりあえずこう書いておく。
『まだ“第一希望”は書けない』
調査票の枠には書けないけど、
今の俺の正直な進捗は、それだ。
メモ帳を閉じて、深く息を吐いた。
――まあいい。
今日はここまでにしておこう。
やりたいことがないくせに、
一日で全部決めようとするほうが無茶だ。
部屋のドアの外から、
母の声が聞こえてきた。
「敦ー、ご飯できたわよー」
「今行くー」
返事をして、調査票をファイルに挟む。
真っ白なままじゃない、
でも何か決まったわけでもない紙を見て、
自分でもよく分からない気持ちになりながら、部屋を出た。