テラーノベル
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事故現場で、プロイはナーガと向き合った。
「このご遺体、どう見る? ……って、目が見えないのか?」
「——嗅覚と聴覚は、むしろ鋭敏になっている」
「それじゃ、プルメリアっぽい香りがしないか?」
ナーガが、遺体の方向に鼻を向けた。
一瞬、ナーガの表情が変わった。微かに頷き、眉根が寄り、形の良い唇が引き結ばれる。
「——ケルベラの香りも、混ざっている」
「ケルベラ?」
「自殺樹とも呼ぶ。東南アジアに自生する猛毒植物で、マンゴーに似た実をつける。種子に含まれる成分は心停止を引き起こす。某国では自然死に見せかけるために、妻が夫の食事に混ぜるケースもあるらしい。低体温を引き起こしたり、意識を朦朧とさせる効果もある」
「投与経路は、内服か? それとも、クリーム状にして塗るとかでもいいのか」
前世の知識を動員して、プロイは尋ねた。この時代、まだ注射という概念はない。
「基本的には、飲み薬として使う毒だ。……この女は毒殺され、象の暴走事故に見せかけられた」
ナーガは、靄のかかった目をプロイに向けた。焦点は合わない。なのに——その視線は真っ直ぐにプロイを捉えていた。
「……プロイと言ったな。俺の『目』になるがいい」
事故現場では、見物の群衆が遠巻きに囁き合っていた。侍従長は蒼白な顔でプロイを睨みつけ、タヤンは面白そうに成り行きを見守っている。
常夏の陽光が容赦なく照りつけ、石畳から陽炎が立ち昇っている。
プロイは前世で学んだ手順を思い出しながら、瞳孔の散大を確認し、体表に皮疹や外傷がないかを丹念に調べては、ナーガに報告をした。
「瞳孔は散大したまま。左右差なし。体表に目立った外傷は見当たらない。打撲痕もなし。頭部の皮下出血もない……象からの落下が、致命的だったとは思えない」
「……やはり、毒による心停止の可能性が高いか」
「しかし、犯人はなぜ、事故に見せかけるなんて手間を? こっそり殴って切って、埋めればいいじゃないか」
「さあな。祭典を混乱させたかったか……」
「確かに、万が一、祭典で人死でも出れば、白象様も王の権威も、困ったことになっていただろうな」
「もしくは、単に、象使いを殺せる腕力が無かったか。死体処理に困るのを見越したのかもしれぬ。後宮には、昼夜問わず人の目がある。数千の女が暮らす狭い街で、人目を盗んで遺体を運ぶのは難しい。運よく門を出ても、行き着く先は砂浜だ。そこから、どうやって船を手配し、海を運ぶか……。それに、後宮を勝手に出入りできる女は——」
ナーガの目が、プロイの方を向いた。
「型破りな門番くらいだ」
プロイは、頭を掻いた。
「……ある意味賢いのかな。なんせ、数百人が『事故死』の目撃者になってくれる」
プロイは立ち上がった。声を張り、群衆に呼びかける。
「聞いてくれ! ナーガ様の所見によれば、この象使いは毒殺された! 使われたのはケルベラ——自殺樹の種子だ! 何か、この事件について知っている者がいれば――」
「で、でたらめだ! 病人の戯言を真に受けるな! 何を証拠に!」
侍従長の顔から血の気が引いた。唇が微かに震えている。
「先生、ご遺体の胃の中身を調べれば、毒が食事に混ぜられた証拠が出るかな?」
「出るだろうな。自殺樹の種子は繊維質が硬く、消化されにくい。胃の中に種子の残骸があれば、経口投与の証拠になる」
「よし。ご遺体の腹を切るぞ! ……ナーガ様が」
「……俺が?」
*
身内の女性から、ご遺体の解剖の同意を得るのは、骨が折れた。
仏教国であるサイアム王国では、命は生まれ変わるという輪廻転生の思想があり、『遺体にメスを入れることで来世に障る』と、家族が拒否感を示すのも当然だった。しかも、術者が男性であるナーガである点も、ご遺体の身内は引っかかっているようだった。
『死因を究明するために、必要なのだ』と言葉を尽くし、時間をかけて説得した。最終的にはタヤンの口添えで、ようやく同意を得たのだが……今度は逆にプロイが権力を乱用したようで不安になり、『王子に言われたから同意したなら、本当に嫌なら嫌って言っていいんだぞ』などと言い出すものだから、余計に時間がかかった。
プロイは警吏たちの手を借り、王宮の処置室に、遺体を移動した。
白壁の小さな部屋で、天窓から射し込む一筋の光が、横たえられた遺体を照らしている。
ナーガは懐から銀のメスを取り出した。南蛮渡来の精密な手術器具。刃は研ぎ澄まされ、天窓からの光を一筋の白い線に変えている。
だが——ナーガの、刃を握る手が、震えている。
「……俺の手は、精緻な動作に耐えられない。プロイ、俺の『腕』になれ」
ナーガは、静かにメスを、処置台に置いた。
「……私、実は血とか、苦手で」
一瞬だけ目を閉じる。
「呼吸の乱れ、心拍の加速、汗の量の変化……怖いのか?」
ナーガの声は、僅かに気遣いを含んでいた。プロイは目を開けた。
「普通、怖いだろ。ご遺体とか血とか」
声が震えた。だが、プロイは拳を握りしめ、自分自身に言い聞かせるように言った。
「……でも。私は、この街の守護者だ」
ナーガの目がわずかに見開かれた。
(人は、ヒーローに生まれるんじゃない。ヒーローに、なるんだ)
プロイは、手袋代わりの薄布ごしにメスを持った。銀の柄が掌に冷たい。
「手順を、教えて」
ナーガが頷き、プロイの手に自分の手を重ねた。メスの銀の柄を二人の掌で包み込む。
付き添っていた警吏と、タヤンと、プロイ自身が、息を飲んだ。未婚の男女が触れ合うこと——この国では、それだけで醜聞になる。
(でも、今は……真実を知るために)
冷たく震えるナーガの指を、プロイは拒否しなかった。プロイの手は緊張で熱い。二つの体温が銀の上で交わった。
「人払いを。ここで起きたことは、決して口外するな」
タヤンの言葉に、警吏たちがバタバタと席を外す。
「ナーガ様の脳みそと、私の腕があれば、完璧?」
ナーガは目を閉じ、深く息を吸った。
「そうだな。……腹部正中線。臍の上、拳ひとつ分から切れ。深さは黄色い皮下脂肪を抜けたところで止めよ」
二人の腕が重なり合い、まるで一人の人間のように連動した。ナーガの指がプロイの手首の角度を微調整し、プロイの力がメスを正確に導く。刃が肌に沈む。
脂肪をかき分けていくと、細い血管が切れたらしく、血がじわりと滲み出してきた。まだ赤い血が、皮下脂肪を染めていく。思わず、プロイの手が止まる。ごくり、と喉がなった。心臓が早鐘を打つ。吐き気が、止まらない。
「悪い。どうしたら——」
「目を逸らさないならば、合格だ。清潔な布で圧迫止血を。すぐ出血は止まる」
「……了解」
震える指でピンセットを持ち、出血点に布を押し当てる。赤い色がじわりと白い布に広がった。プロイは歯を食いしばった。せめて視線だけは、逸らさないでおきたかった。
胃まで切り進むと、その中に、証拠が現れた。
今朝の食事の残留物——カオトム。あっさりとした透明なスープで米を煮込んだタイ風の粥だ。そして、サークー。タピオカに似たデンプン質の小さな団子を、甘いココナッツミルクに入れたデザート。その残留物のなかに、細かく砕かれた種子の欠片の一部が、極小の蜜の塊に包まれたまま残っていた。琥珀色の小さな粒が、いくつも散らばっている。
「俺の目ではよく見えぬ、説明せよ」
「小さな蜜の飴みたいなものが、沢山見える。色は琥珀色で、白い粉が練り込まれている。中に植物の繊維のようなものが薄く透けている」
「……プルメリアの蜜を加熱処理して溶けにくくし、時限装置を作っていたようだな。……甲殻類の殻から抽出されたキチン質を含む蜜で、毒を何層にもコーティングした。胃でゆっくりと殻が溶け、時間差で毒が放出される仕組みだ。蜜が溶ける過程でプルメリア特有の甘い芳香成分が遊離し、胃の中に充満した香りが口腔まで上がってきた」
「やっぱり、無駄に賢い犯人だ。時限装置なら、犯人は毒を仕込んだ後、現場から離れていられる。象使いは今朝、後宮の中央食堂で食事を摂っているから——」
「毒を入れた犯人は、今朝、後宮の食堂あたりにいた人間」
「……でも、ここで手詰まりだ。どうやって絞っていくか……」
「事件から数時間で、ここまで分かっただけでも十分だ。全く、人の子はいつも生き急ぐ」
ナーガの声から、棘が消えていた。
「感謝しておく。……お前の濁りなき目と、解剖に耐える手がなければ、俺の嗅覚も知識も、腐らせるだけだった」
ナーガはプロイを慰める口調だ。何となく借りを作ったような気分になって、プロイも、珍しく素直に言葉を紡ぐ。
「ナーガ様の嗅覚と知識がなきゃ、私はこれをただのデンプンの塊として見過ごしていた。……ありがとう」
ナーガの顔が、まっすぐにプロイの方を向いた。焦点は合っていないはずなのに、プロイは深く『見つめられている』と感じた。
(……無理やり連れてきたナーガ様に、慰められてる場合じゃない)
プロイは頭を振り、再度考え始めた。
「ある国の影の番人』たちは、毒そのものじゃなく、毒が流れる『ルート』や、『犯人の特徴』から事件を炙り出すと聞く」
プロイは腕を組み、前世のプロファイリング分析を思い起こした。
「ケルベラの種子、甲殻類の殻。これらを市場などで集められる人物……。そして、犯人の性質。これだけの準備をしてる、緻密で几帳面。そして何より、誰にも邪魔されずに長時間作業ができる『密室』を持っている人間に限られる。大部屋住まいの末端の女官には不可能だ」
ナーガの表情から、気怠さが消えた。形の良い顎に手を当て、興味深そうな視線をプロイに投げる。
「最後に、食堂で象使いの食事に毒を仕込める者、もしくはそれを指示できる者、だな」
「つまり、『上層部の人間』だね」
タヤンの声に、プロイは頷いた。
「……驚いたな」
ナーガの低い声が、処置室に響いた。
「ただの番犬かと思っていたが。何者だ? 毒の成分からではなく、行動心理から犯人を特定する思考体系……俺の知る、如何なる東西の学問にもない」
「ただの門番さ。悪事を働く奴の『心理』を知っていれば、街を守りやすくもなるだろ」
プロイは肩をすくめて笑った。
「血に震えていたその腕で、この街を守ろうとするか。……この暗い瞳にさえ、これほど鮮烈に映るヒトがいるとはな……。ふ、しばし、この重い瞼を開けておくのも、悪くない」
ナーガの形の良い唇が、弧を描いた。
*
プロイは夜を待った。
後宮街の夜。
日が沈むと、石畳の通りに極彩色のランタンが灯り、女だけの街が、昼とは違う色を纏う。赤と金のシルクが軒先に揺れ、蝋燭の炎を包んだ紙灯籠が、石畳に暖かい影を落としている。香辛料と焼き菓子の匂いが夜気に混じり合い、女たちの笑い声が回廊に響く。誰かが二胡に似た弦楽器を奏で、甘い旋律が夜の空気を彩っていた。
往来を行くプロイは、藍染めの制服を脱ぎ、鮮やかな赤色のシルクのサバイを纏っていた。金の耳飾りと腕輪を借り受け、髪を結い上げる。腰にスカート状の布を巻くと、門番の荒々しい姿からは想像もつかない、女性らしい姿に変わった。
「姉様きれい! お姫様みたい!」
「この服じゃ、走れない。それに私がなりたいのは、救われるお姫様じゃない、救い出すヒーローだ」
「そういうところも、好きだけどさ……。その格好、潜入捜査でしょ? 僕も行く!」
「夜も遅い、帰ってくれ。というか、この街の数少ない男性が隣にいたら、目立ちすぎて潜入捜査にならない。帰らないと、王女様に言いつけるぞ」
先程から、若い女性たちが、チラチラと美形王子を見ている。そのうち数人の瞳には、明らかな熱が宿っている。しかし、タヤンの視線が、プロイから逸れることはない。
「へえ、僕が男だって、ちゃんと分かってたんだ? 姉様と夜のお出かけ、したかったけど……今度にするよ」
タヤンが渋々帰っていく。
プロイは腰に隠した短刀の位置を確かめ、夜に踏み出した。
ランタンの明かりの下、プロイは酒場に入った。
前世で何十回とこなした潜入捜査の要領。変装して相手の懐に入り込み、情報を引き出す。マトリの十八番だ。
酒を片手に女官たちの輪に加わる。何気ない世間話を装いながら巧みに話題を象使いの話へ誘導する。『今日は怖かったねえ』と水を向け、相槌を打ち、『そういえば、お上は……』と自然に核心へ近づく。聞き込みの技術は、前世が叩き込んだ財産だった。相手に『自分から話した』と思わせる。決して詰問しない。笑顔で、酒を注ぎ、時には自分の秘密を少しだけ明かして、相手の警戒を解く。
やがて、重要な情報が得られはじめた。
『数日前、象使いと侍従長が東園で激しく言い争っていた。象使いが泣いていたわ』
『侍従長には、象の管理費用を横領していたという噂がある。白象様のお食事代を減らして、差額を懐に入れていたって』
『侍従長は昔、東園の医師のもとで修行していたことがあるらしいわ。途中で辞めて宮仕えに移ったんだけど』
『最近、侍従長を食堂の厨房近くで見た。あの人、普段は厨房になんて近寄らないのに』
プロイの目が光った。
東園。プルメリア。厨房。すべてが侍従長に繋がる。
(象使いは横領の事実を知り、告発しようとして口封じされた?)
状況証拠が、一本の線になりつつある。
(だが、証言だけじゃなく、物証が欲しい……)
情報提供者の断続的な証言をつなぎ合わせるうちに、プロイは侍従長が使っていたという廃棄された地下貯蔵庫の存在を知った。後宮街の南端、運河沿いの旧倉庫の地下。今は使われていないはずの場所に、求めているものがあるかもしれない。
*
暗がりを縫うようにして、プロイは地下貯蔵庫へ降りた。黴と湿った土の匂いが鼻をつく。壁の石材が水滴を帯びている。持ち込んだ小さな灯火が、揺れる。
棚の奥を探すと、明らかにそこだけ埃が少ない一角があった。分厚い麻紙の束を取り出し、開く。
(……実験ノート?)
蜜の加熱温度や溶解時間の計算式が、几帳面な筆跡で書き込まれていた。
「ビンゴだ……!」
プロイが踵を返そうとした瞬間、扉が鈍い音を立てて閉ざされた。
「ネズミが迷い込んだと思えば……化けたねえ、門番殿。事前情報がなけりゃ、分からなかったくらいだ」
暗闇の中から、武装した女たちが六人、現れた。彼女らの手には、湾曲したダーブと呼ばれる刀が握られている。刃が灯火を映し、鈍い光を放っていた。
プロイは瞬時に臨戦態勢をとった。重心を低くする。腰の短刀に手を伸ばす。
(逃げながらでも……一人ずつ、仕留める!)
プロイは右へ踏み込み、近づいてきた女の一人の刀を躱し、強烈な肘鉄を食らわせて悶絶させた。さらにもう一人を仕留めようと、右手を上げた、その時。
視界の左隅から、女の一人が、黒い粉末をプロイの顔面に向けて勢いよく放った。
「なっ——!?」
回避する間もなく、粉末がプロイの目と鼻腔を直撃した。
瞬間、顔面を業火で焼かれたような激痛が走る。視界が完全に奪われ、呼吸をするたびに気管が焼け焦げるように痙攣した。
(黒胡椒の目潰しか……!)
前世の知識が冷静に分析するが、身体は言うことを聞かない。涙と咳が止まらず、プロイは膝をついた。
振り下ろされる刃の気配に、プロイは身を固くし――
——ドゴォォォォン!!!
地下貯蔵庫の分厚い天井の一部が、文字通り「吹き飛んだ」。石材と土砂が崩れ落ち、土煙と瓦礫が舞う中、開いた大穴から夜の月明かりが差し込む。満月に近い白い光が、埃の粒子をきらきらと照らし出した。
その光を背負い、青と金の羽根を持つ巨大な騎鳥が舞い降りた。翼が巻き起こす突風が、地下の淀んだ空気を一掃する。
騎鳥の背から、軽やかに飛び降りた人影。
「……私の初恋に、気安く触れるな」
タヤンだった。昼間の子犬のような愛らしさは完全に消えている。威圧感がその場を支配した。彼の背後には、完全武装した近衛兵の精鋭たちがずらりと並び、一斉に女たちへ槍を突きつける。少し後ろには、象騎兵の姿まで見える。
(いくらなんでも……私一人のために……やりすぎ)
「10年前から、私が姉様を正妃に望んでいること……後宮に知らぬ者は、ないはずだが。王族への反逆罪で、全員を拘束する。……抵抗するなら、この場で斬り捨てる」
冷酷な王子の宣言に、女たちは次々と武器を取り落とし、膝をついた。
プロイは、ホッとして、タヤンの気配を探る。
(……正妃とか、軽々しく言うなっての。子どもの『ママと結婚する!』ってヤツだと思って放置してたら……まさか10年続くとは)
だが。
窮鼠となった女の一人が、まだよく目が見えないプロイの背後に素早く回り込み、その首筋に刀を押し当てた。冷たい刃が、プロイの頸動脈に触れる。
「動くな! 槍を引け! さもなくば、門番の命は無い!」
タヤンの顔に焦燥が走り、近衛兵たちが凍りつく。プロイも必死に周囲の音や気配を探り、反撃の機会を待つが、刃が肌に食い込んでおり身動きが取れない。
「……お前が動くな」
暗闇の奥、地下水路へと続く通路から、杖の音が響いた。コツ、コツ、と石畳を叩く音が近づき、月明かりの中に銀色の髪が浮かび上がる。滅多に自室から出ないはずのナーガが、薄い衣服のまま、息を乱して立っている。
「 引っ込んでろ!」
女が叫ぶ。しかし、ナーガは怯まなかった。
ナーガの長く白い指の間に、一本の銀の小太刀が挟まれる。ナーガの耳が微かに動いた。
「……そこだ」
手首のスナップだけで放たれた銀の閃光が、暗闇を切り裂いた。それは、女の刀を持つ右の鎖骨周囲――右腕につながる腕神経叢に、突き刺さった。
「あ……? 腕がっ! 腕が動かないっ!」
女の腕が、糸を切られた操り人形のようにだらりと垂れ下がり、刀が石畳に落ちた。
「南海で採れる猛毒の貝——アンボイナガイから抽出した猛毒を塗ってある。神経の伝達を瞬時に遮断し、筋肉を麻痺させる。命に別状はないが、数時間は指一本動かせんぞ」
女が腕に注意を集中させたその時、プロイは残った力で女の顎に強烈な肘打ちを叩き込み、完全に気絶させた。
「先生……どうして、ここに……」
「お前の心拍数が跳ね上がり、呼吸が乱れる音が、後宮の端からでも聞こえた。……お前の心音は、妙に耳障りで、覚えやすい」
口調は相変わらず冷ややかで棘がある。しかし——。
ナーガは、プロイに歩み寄った。両手を伸ばし、プロイの頬を強く包み込む。焦点の合わない霞がかった瞳が、必死にプロイの輪郭を「視よう」と揺れている。
ナーガとプロイを遠巻きにしていた近衛兵たちに、戸惑いが広がる。王子の妻に、と望まれている女性に触れるなど、この男は何を考えているのか。
「……今は。脈は、落ち着きを取り戻しているな」
ナーガの親指が、プロイの目元にこびりついた黒い粉末を、そっと拭い取る。
「……せっかく得た、俺の『目と手』を失うかと、ほんの少しだけ……想定外の動揺をした。脱皮期が終わるまで、あと数年は、役に立ってもらう」
「脱皮?」
「ナーガ様、姉様に触わらないで。西洋ではどうか知らないけど! この国では、未婚の異性の人間同士が触れ合ったら――姉様の名誉に関わる」
タヤンが、頬を膨らませて訴えた。どこかわざとらしく、周囲に聞かせるように、声を張っている。
(まぁ、いいか。ナーガの正体を『知らない』でいれば、対等な相棒でいられる)
プロイは、手の中にある証拠品の紙束を掲げた。お姫様らしからぬ表情で、不敵に笑った。
「手に入れたぞ! 二人とも——ありがとう」
*
証拠品を押収し、地下倉庫を出ると、空が白み始めていた。
鳥のさえずりが回廊に響き、女官たちが掃除を始める音が、いつもの朝の始まりを告げている。
「確保ォオオ!!」
プロイは証拠を携えて、侍従長の部屋に駆けた。
侍従長は証拠品を突きつけられた瞬間、悲鳴を上げ、プロイの腕を振りほどいた。素早く身を翻し、口笛を鳴らす。
上空から急降下してきた騎鳥——紫の羽根をもつ巨大な鳥が、侍従長の前に降り立った。侍従長がその背に飛び乗ると、翼が風を巻き起こし、騎鳥は空へ舞い上がった。華美な衣装の裾が風にたなびき、朝靄の中に消えていく。南の海の方へ——。
「姉様! シアが来てくれた!」
青と金色の騎鳥が、一陣の風と共に舞い降り、プロイとタヤンを乗せて空に駆け上がる。
後宮街はあっという間に小さくなった。赤い甍と金の尖塔が、箱庭のように眼下に広がる。チャオプラヤー川が銀色の帯のようにうねり、水上市場の小舟が木の葉のように浮かんでいる。
侍従長を追う。風が頬を叩き、雲が手の届きそうな近さで流れていく。
やがて海岸線が見えてきた。白砂の浜辺に、波が銀色の縁取りを描いている。椰子の木々が風に揺れる。
一瞬で砂浜を通り過ぎると、アクアマリンの海が視界を埋め尽くした。珊瑚礁の浅瀬が碧玉色の層を重ね、光の角度によって刻々と色を変えていく。
追跡の舞台は、海上に移った。
プロイは、侍従長と距離を詰めると、躊躇いなくタヤンの騎鳥ーーシアの背から飛んだ。侍従長の騎鳥に飛び移り、侍従長の腕を掴む。
紫の騎鳥の上で侍従長が暴れ、バランスが崩れる。翼が傾き、二つの影が絡み合ったまま、空を滑落していく。
「姉様っ! 危ない!」
タヤンの悲鳴が、風に千切れて消えた。
プロイと侍従長は、そのまま海面に落下した。
泡と光の粒子が渦を巻く水中で、プロイは侍従長の手首に縄を巻きつけた。
朝の陽光が海面を通過し、水中に光の柱を何本も落としている。珊瑚の合間を色とりどりの熱帯魚が逃げ、気泡が煌めきながら水面へと昇っていく。
海面に顔を出した瞬間、プロイは海水を吐き出し、叫ぶ。
「象使い殺害の容疑で——確保ぉ!」
朝陽が、青く透きとおる海を、煌めかせていた。波の上に浮かびながら、侍従長の腕をしっかりと掴んだまま、プロイは空を見上げた。上空のタヤンが見下ろしている。
呆れているだろう、と見上げたのに——タヤンの瞳は、悪戯っぽく輝いていた。朝日を受けた目が海の青を映し、きらきらと笑っている。
「……姉様、最高」
*
侍従長は逮捕された。象使いの毒殺、横領——その罪は明白だった。
けれど、プロイの心は晴れなかった。
(なんだろう、この違和感……罪と罰、分かりやす過ぎる。なにか、見落としている……?)
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