血筋良し、見栄え良し、都でも一二を争うモテ男──少将、守近《もりちか》は、数々の誘惑を振り切り、妻《せいさい》、徳子《なりこ》の元に日々詰めていた。
いわゆる、ご機嫌取りである。
守近が、妻の好物の菓子を食《しょくし》てしまい、徳子がへそを曲げてしまったのだ。
以来、徳子は、守近の出仕の見送り、帰宅の出迎えと、正妻の勤めは果たす。が、無言のままで、やり過ごし、共に食していた夕餉も、躾のなっていない者とは、共にできぬと、辛辣な言葉を女房に託して房《へや》に籠った。
かろうじて、寝所《しんしつ》は、共にできるものの、隣り合わせの夜具で、守近に背を向けて寝ってくれる。守近が、つい、徳子の夜具へ忍ぼうものなら、鯨尺《ものさし》が、容赦なく飛んでくる。誰の入れ知恵か、徳子は、その様なものまで、仕込んでいた。
さすがに、これは、まずい。まさか、菓の一つ二つで、これ程、拗《こじ》れるとは、守近も思ってもいなかった。
しかも、守近。この騒動が起こってからは、屋敷での居心地がすこぶる悪く……。
初め、事情を知らない裏方衆は、女主《おんなあるじ》の様子に首をかしげていたが、徳子付の女房達が、子細をペラペラ喋った為に、屋敷に仕える者は皆、守近に含み笑いを送ってくる始末。
牛車《くるま》の牛引き、牛飼童《うしかいわらわ》に至っては、出仕の度に、「本日も、お早いお帰りを」などと、からかってくる。
そんな周囲の仕打ちに、守近が辟易し始めた頃、日日薬《ひにちくすり》と言うものか、徳子が、やっと、一言二言、言葉を返すようになった。
この好機を逃してなるものかと、守近は、徳子《なりこ》に取り入った。
そのかいあって、どうやら、いつもの生活へ戻ろうとしているが、まだ、油断はならぬ。守近は、徳子の房《へや》に入り浸り、あれやこれやと、ご機嫌取りの、よもやま話に花を咲かせているのだった。
もちろん、自身付の童子、長良《ながら》を連れて──。
徳子の元には、女童子《めどうじ》の沙奈《さな》がいる。
沙奈は、長良の妹で、まだ、五つ。寂しかろうと、妹に兄を会わせるという口実で、なによりも、童子がいれば、徳子も子供可愛さにほだされ、諍《いさか》い事にはなりにくくなると踏んだ守近は、長良を盾に徳子の元へ足を運んでいた。
さて、本日は、沙奈の手習いを見てやろうと、徳子の房《へや》に集まっている。
嬉しげに、沙奈は文机に向かっていた。
判読不可能な状態から、どうにかこうにか、仮名文字らしきものを書けるようになり、上達したと、徳子や、女房達に誉められていたからだ。
今日は、手本は無い。好きに書いてごらんと、徳子に言われ、沙奈は上機嫌だった。
だが、いざ、筆を取ると、何を書こうかと、悩む。
幼子の顔が、厳しくなった。
固まる沙奈に、守近が声をかける。
「沙奈や、そう難しく考えることはないよ。ねぇ、徳子姫?」
「ええ。そうよ。そうだわ!沙奈の好きなものを、お書きなさい。ねえ、守近様?」
うんうん、と、いつもながらの徳子の采配に、賑やかに頷く守近であったが、その内心は、揺れに揺れていた。
──好きなもの。
沙奈のことだ、「か し(菓子)」などと、筆を振るうのではなかろうか。
ここに来て、菓子などとやられてしまっては、元の木阿弥、振り出しに戻ってしまう。