徳子《なりこ》にばれぬ様、守近は、長良《ながら》を見る。
長良も、主の意図を汲んだらしく、
「あー!そうだ、沙奈《さな》!ほら、里で飼っていた……お前、好きだったろう?」
何やら、必死に誘導しようとしているが、
「あー!あいっ!」
沙奈は、上手く、兄の導きに乗ったようで、嬉しげな声を挙げると、そろりそろりと、慎重に、筆を動かした。
「できましたっ!」
どらどらと、守近が覗きこむ。
しかし……。
困りきる守近を見て、長良も、覗きこんだ。
しかし……。
これを、どう解読すれば良いのやら。紙には、何かが、のたくった跡があるのみ。
「まあ、上手に書けたわね」
徳子は、沙奈が書いたものが、文字に見えているようで、「これが、沙奈の好きなもの?」と、訝《いぶか》しげに首を傾げている。
どうやら、「菓子」では無さそうだと、守近は胸を撫で下ろしたが、さて、何と書かれているのだろう。
「ほお、沙奈は、珍しいものが好きなんだねぇ」
守近は探りを入れた。
「ふつうですょ!」
沙奈が抗う。
「あら、普通なの?私《わたくし》は、珍しいと思ったのだけど。だって、わに、なんて……ねえ、守近様?」
「鮫《わに》?!」
長良が声を挙げる。
「わっ、わ、鮫《わに》肉が好きとは、沙奈も、なかなかの美食家だなぁ」
と、平穏をよそおいながらも、あまりにも突飛すぎて、守近の声は裏返っていた。
「違いますょ!ねこ、です!」
「ねこ?!」
長良が、叫んだ。
「沙奈!どうやったら、鮫《わに》が、猫になるんだっ!」
わあわあ言い合う兄妹を前に、守近は、ごもっともと、すっかり、気抜けする。
その脇で徳子が、呟いた。
「あぁ、沙奈、また、間違えたのね」
ほら、と、言いつつ、徳子は、沙奈に手本を書いてやる。
「いいこと?これは、わ。ねは、こうよ?そして、これは、に。こ、は……」
つまり、「わ、に」ではなく「ね、こ」だったと。
実に紛らわしい間違いをしてくれたものだ。
「あらっ!これは!主《あるじ》様!おさがりでしたか!」
わやわやと、場が騒がしくなる。徳子付の女房達が、それぞれの役目を果たして、戻って来たようだ。
が──。
寄り添ってはいるものの、何やら、複雑な表情の守近と徳子を見て、女房達は、もしや、再び何事か起こったのかと邪推する。
さっと、共にいる長良《ながら》へ視線が集中した。
「あっ、あの、その」
女房達の気迫に押された長良は、文机から、沙奈《さな》の書いた文字もどきを奪うように取る。
「沙奈の手習いを見ていたのです!ま、まだ、まだ、間違いが多くて!」
長良は、のたくった文字もどきが書かれている紙を、女房達へ差し出した。
一瞬の間の後、徳子の房《へや》に、どっと笑い声が挙がった。
「な、なに?これ」
「鮫《わに》と猫?」
「なるほどねぇ。わ に、と、ね こ……!!」
「沙奈らしいわ!」
ああこれで、主《あるじ》夫婦の様子がおかしいのかと、女房達は、得心したが、沙奈の間違いが可笑しすぎると、笑いを止められない。
皆、袖で、涙をふきふき、床に転がりこむ勢いで、笑い続ける。
それにしても、「ねこ」は、徳子の筆である。しかし、「わに」は、沙奈が、書いたもの。守近も、長良も、読めなかったものを、どうして、女房達は、あっさりと読めたのだろう。
やはり、仮名文字《おんなもじ》。男には、わかり得ない何かがあるのだろうか。
守近と、長良は、顔を見合わせた。
「もおー!ちょっと間違えただけですょ!沙奈は、猫ちゃんが好きなんですっ!」
皆へ、もの申す沙奈の剣幕に、さすがに、この辺りにしておこうと、女房達は笑いを堪えた。
「では、沙奈は、猫を見たことがあるのね?」
いつもなら、この鈴を振るような徳子の声に、皆、思わず聞き惚れるのだが、今日に至っては、勝手が違った。
「もしかして、お方様は、猫ちゃん見たことないんですかぁ?!」
「ええ、ないですよ。」
何の迷いもなく答える、徳子に、一同は固まった。
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