遡ること六年前。
関谷絵美(せきやえみ・23歳)は、神奈川県の水族館に勤めていた。
彼女の担当はイルカブースで、仕事は主にショーの企画や進行、イルカたちの訓練を任されていた。
この日も絵美は大勢の観客の前でマイクを持ち、イルカショーの司会をしていた。
「それでは最後に、お兄さんイルカ・スカイくんの大ジャンプでお別れです! 本日はイルカショーにお越しいただきありがとうございました!」
絵美の合図とともに、音楽の音量が大きくなり、それに合わせるようにベテランイルカのスカイが大ジャンプを披露した。
ジャンプのたびに観客席から大きな歓声と拍手が湧き上がる。
人々はその迫力にすっかり魅了されていた。
すべての演目が終わると、観客たちは席を立ち、会場を後にした。
抽選に当たった一部の観客が水槽の脇に集まり、スカイと記念撮影を始める。
絵美は微笑んでその様子を見守りながら、他のスタッフと会場の片付けを始めた。
そのとき、突然、背後から声が響いた。
「あの~」
振り返ると、そこに一人の男性が立っていた。
年齢は絵美よりも5~6歳ほど上だろうか。
「はい、何でしょうか?」
絵美が答えると、チノパンに白シャツ姿の男性は、少し戸惑いながら口を開いた。
「私、精神科医をしている高見沢圭(たかみざわけい)と申します」
圭は名刺を一枚取り出し、絵美に差し出した。
突然のことに、絵美は思わず驚いた。
「どうも……」
「あの、ちょっと伺ってもよろしいでしょうか?」
「はい、何でしょう」
「DATについて、どう思われますか?」
「DAT? ああ、Dolphin Assisted Therapy (ドルフィン・アシステッド・セラピー)ですか?」
絵美の答えに、圭は嬉しそうな表情を浮かべた。
「やっと話が通じる人がいた! いや~、いくつも水族館を巡ったけど、DATをすぐに理解してくれたのはあなたが初めてですよ」
圭はそう言って微笑んだ。
その無邪気な笑顔を見て、絵美も思わずクスッと笑った。
それが二人の出会いだった。
ほどなくして、二人は互いに言いたいことを言える間柄となる。
イルカセラピーに関心のある精神科医師とイルカトレーナーとの関係は、友人から親友へ、そして親友から恋人へと発展していった。
絵美は、患者に真摯に向き合う圭に対し尊敬の念を抱くようになり、圭はイルカトレーナーとして生き生きと活躍する前向きな絵美に特別な感情を抱くようになった。
二人が恋人として付き合うようになるまでには、それほど時間はかからなかった。
しかし、言いたいことを言い合える関係というのは、ときに激しい言い争いへと発展する。
そのたびに二人は別れを繰り返したが、気付けばどちらからともなく歩み寄り、いつの間にか復縁していた。
まさに、腐れ縁という関係だろう。
そんなことを繰り返すうちに、三年の月日が流れていた。
その日、絵美は、都内のカフェにいた。
北海道に住む大学時代の先輩が上京したため、久しぶりに会う約束をしていた。
そこで絵美は、重大な話を持ちかけられる。
「どう? やってみない? そのクルーズ船の会社」
「私がですか?」
「そう。もし絵美が継いでくれなかったら、社長は会社をたたむと言ってるの」
「……」
「知床のクルーズ船も、あの事故以来、すっかり観光客が減ってね。それで、営業を諦めてしまう会社も後を絶たなくて……このままだと、観光船が壊滅状態になりかねないのよ」
「そこまで追い込まれていたんですね」
「うん。ただでさえ、経営者が高齢化で引退していくでしょう。地元の観光協会も危惧してるわ。世界遺産になったからって、どこも安泰ってわけじゃないし……観光業も難しいわよね」
「でも、私に務まるでしょうか? 経営については素人ですし」
「それは大丈夫よ。今のオーナーがいちから教えるって言ってるから」
「そう……ですか……」
「あなた前に言ってたでしょう? 本当は水族館の水槽の中じゃなくて、自然の海で伸び伸び泳ぐイルカを子供たちに見せてあげたいって。だから、この仕事はあなたにぴったりだと思ったの」
「そう言ってもらえて光栄です。でも……」
そのとき、先輩が口を開いた。
「気になるのは、恋人のこと?」
「え?」
「たしか、彼はお医者様だったわよね。だから悩んでるの?」
「そういうわけでは」
「恋愛は遠距離でもできるけど、こんなチャンスは二度とないわよ。だから、真剣に考えてみて」
「わかりました」
彼女の言う通り、絵美には圭のことが引っかかっていた。
大学病院で精神科医として働いている圭が、北の果てまで一緒に行ってくれるとは思えない。
いや、それ以前に、将来有望な医師を連れていくことなど、絵美にはできなかった。
となれば、選択肢は遠距離恋愛か別れしかない。
遠距離恋愛を選んだとしても、いずれ破局するのは目に見えている。
圭は一見するとプレイボーイで優柔不断に見られがちだったが、絵美は本当の彼をよく分かっていた。
彼は常に相手の意見を尊重し、思いやりにあふれていた。
もちろん圭は、いつか自然の中で生きるイルカたちと関わりたいという絵美の夢を知っていた。
だからこの話をすれば、「せっかくのチャンスだから行っておいで」と背中を押してくれるだろう。
しかし、そうなれば二人の関係が終わるのは間違いない。
なぜなら、医師というハイスペックな職業の圭は、恋人がいても普段からモテていたからだ。
(捨てられるなんて嫌! それなら、いっそのこと私から別れを切り出す?)
しかし、圭と別れることを想像するだけで、絵美の心には深い悲しみが押し寄せた。
____一ヶ月後。
絵美は羽田空港にいた。
あれから散々悩んだ末、彼女は北海道へ行くことを決意した。
もちろん、理解ある圭はその決断に賛成してくれた。
ただし、別れることには、決して「うん」と言わなかった。
「遠距離だって大丈夫だよ」
「休みが取れたら、必ず会いにいくから」
「俺は絵美とは絶対に別れないからな」
最後の話し合いで圭が言った言葉を思い出し、絵美の頬に涙が伝った。
そのとき、女満別空港行きの搭乗アナウンスが流れた。
絵美は涙を拭うと、キャリーバッグを手に取り、静かに搭乗口へと歩き出した。
その日、圭は、先日の絵美との言い争いのことが気になり、半休を取って神奈川のマンションへ向かった。
絵美の部屋の前に立ち、インターホンを押す。しかし応答はない。
違和感を覚えた圭は、狂ったように何度もインターホンを押した。
それでも、辺りはしんと静まり返るばかりだった。
そのとき、隣の部屋から50代くらいの女性が顔を出し、圭に声をかけた。
「そちらの方、引っ越されましたよ」
「え? いつですか?」
「昨日の夕方挨拶に来て、今朝荷物を運び出してたわ。北海道に行かれるんですってね」
「……」
黙り込む圭を見て、女性は不思議そうな表情を浮かべる。
そこで、圭はハッと我に返った。
「ありがとうございますっ」
圭は女性に礼を述べると、すぐにエレベーターへ駆け込んだ。
マンションを出て歩き始めた圭は、絵美に電話をかけた。
しかし、電話口から流れてきたのは「この電話は現在使われておりません」という虚しいアナウンスだった。
(なんでなんだ、絵美のやつ! ひとりで勝手に決めやがって!)
大通りでタクシーを捕まえると、圭はそのまま羽田空港へ急いだ。
「すみません、なるべく急いでください」
その言葉に、運転手が申し訳なさそうに答えた。
「お客さん。急ぎたいんですが、事故で規制がかかってるみたいで、しばらく動きそうにないですねえ」
後部座席から身を乗り出して前を見た圭は、がっくりと肩を落とした。
渋滞は今始まったばかりのようだ。
飛行機の出発時刻を確認すると、20分後に出発する便がある。
タクシーを降りて電車で行ったとしても、おそらく間に合わないだろう。
(くそっ……なんで勝手に決めてしまうんだ。俺はいくらでも待てるのに……なんでなんだ、絵美のやつ、ちくしょう!)
膝の上の拳に力を込めながら、圭は悔しさに目を閉じた。
その瞬間、絵美との懐かしい日々が次々と蘇ってきた。
絵美とは何度も喧嘩しては何度も笑い合った。
どちらも素直になれないときは一度別れたが、別れた途端に圭はすぐに後悔した。
別れている間、別の女性と付き合ったこともあったが、すぐに「絵美じゃないとダメだと」気づいた。
普段は自分から謝ることなどほとんどない圭も、絵美に対してだけはすぐに謝った。
彼女が許してくれる度に、ホッとして天にも昇るような気持ちになったものだ。
しかし、今回は今までとは違い、そう簡単に謝りに行くことができない。
それほど、二人の距離は遠く離れてしまうのだ。
(俺の居場所は、お前のそばしかないんだ……俺はお前がいないとダメなんだよ、絵美!)
どうしようもない虚しさに押しつぶされそうになりながら、圭は両手で顔を覆った。
***
それから三年の月日が流れた。
あれから圭は大学病院を辞め、知人の紹介で総合病院へ移った。
そこで内科と小児科の経験を積み、今ではほぼ一人でどんな症状にも対応できるようになっていた。
同時に、知床付近に勤務できる病院はないかと、あらゆるつてを頼って探し続けた。
その結果、絵美の住む街で跡継ぎを探している小さな医院を運よく見つけた。
そして今、圭は飛行機に乗り、女満別空港へ向かっていた。
飛行機を降り、空港でバスを待っていると、偶然、同じ方向へ向かう女性と知り合った。
聞けば、彼女の家は絵美が住む街と同じだった。
斜里町は初めて訪れる場所だったので、圭は少し緊張していた。
しかし、女性のおかげで不安は和らぐ。
不思議と、圭はすべてうまくいく気がしていた。
なぜなら、その女性が絵美の知り合いだったからだ。
(運が向いてきたな……)
圭は自分を励ましながら、そのときを待った。
絵美のアパートの前にたどり着くと、彼女はまだ帰っていないようだった。
そのとき、一台の車がアパートの駐車場に滑り込んでくる。
車から降りてきたのは、ずっと会いたくて仕方がなかった絵美だった。
「絵美っ!」
男性の姿を見た絵美は、驚きのあまり言葉を失った。
しばらく彼をじっと見つめた後、彼女はようやく口を開いた。
「圭! どうしたの? なんでここにいるの?」
「こっちで開業することにしたんだ」
「え? 嘘っ!」
「嘘じゃない! 閉院予定だった小峰医院を継ぐんだ」
その言葉に、絵美は驚いた。
「どうして? なぜあなたが小峰医院を継ぐの?」
「僕の恩師が北海道出身で、偶然小峰先生と知り合いだったんだ。たまたま僕がこの辺りで勤められる病院はないかと尋ねたら、小峰医院を紹介されたんだよ」
「…………」
絵美は驚きのあまり押し黙った。
しかし、急に思い出したように圭に聞いた。
「でも、あなたは精神科医でしょう? 内科や小児科を引き継げるの?」
その言葉に、圭は得意げな表情で答えた。
「この三年間、外部の病院で内科と小児科の研修を積んできた。だから、大丈夫!」
圭の言葉に、絵美は信じられないという表情を浮かべた。
「絵美、僕は君じゃないとダメなんだ。君と別れてから新しい出会いを探したけど、どれも続かなかった。そこで気づいたんだ。僕には絵美が必要だってね」
その言葉を聞いた途端、絵美の瞳から涙があふれ出した。
「絵美! 結婚しよう! 僕たちはそうすべきだったんだ。結婚して、この先ずっと一緒にいよう!」
圭が言い終わらないうちに、絵美は走り出して彼に抱きついた。
「バカバカバカ! どうしてもっと早く言ってくれなかったの! 私はその言葉をずっと待ってたのに!」
「ごめん、絵美……僕はバカだから、失って初めて気づいたんだ。君がかけがえのない存在だってことに」
「わあああん」
そこからは、絵美の激しい泣き声だけが響いていた。
***
狭いワンルームの一室で、圭はゴロンと横になっていた。
斜里町へ来て以来、彼は絵美の部屋に居候している。
彼が引き継ぐ予定の小峰医院は現在改装中で、実質今は無職のニートだ。
キッチンからは、食欲をそそる匂いが漂ってきた。
今日は絵美が夕食担当だ。
「唐揚げが食べたい」
圭がそうリクエストすると、絵美は快く応じてくれる。
ガーリックの効いた唐揚げの匂いを嗅ぐと、思わず圭のお腹がキュルルと鳴った。
「あーっ、今、お腹鳴ったでしょ?」
「離れてるのによく聞こえるな。地獄耳女だな」
「ひどーい、そんな言い方ないじゃない」
「あはは、地獄耳女、地獄耳女!」
「ばっかみたい。子供じゃあるまいし」
絵美はぷくっと頬をふくらませながら、コンロの火を止めた。
そして、熱々の唐揚げを盛った皿を、圭の前へと運んできた。
「大体、唐揚げが好物とか、マジでお子様じゃない!」
絵美にいじられても、圭は気にしなかった。
今はただ、絵美のそばにいられれば、それだけで幸せだった。
ご飯や常備菜、味噌汁が次々と食卓に並んでいく。
そこでようやくスウェット姿の圭が立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。
「ビール飲むでしょ?」
「飲むーっ」
すぐに機嫌が直るところも、絵美の好きなところだった。
とにかく、ここ最近は絵美のことが気になって仕方がない。
隙あらばちょっかいを出し、常に構ってもらいたがっている自分がいた。
「じゃあ食べよっか。いただきまーす」
「いただきます」
手を合わせた二人は、まず唐揚げを一口食べてみた。
「美味い! 絵美の唐揚げ最高!」
「ありがとう。ビールに合うねー」
「うん。マジで美味いよ」
「揚げたてって美味しいよね」
「うん……」
圭の箸が急に止まり静かになったので、絵美は不思議そうに首をかしげた。
「ねえ、食べないの?」
「食べるよ」
「だって、手が動いてないじゃん」
「あれ? おかしいな……」
「何? 熱でもあるの? なんか変だよ」
絵美は心配そうな表情で、圭の顔を覗き込む。
そのとき、圭は意を決したように口を開いた。
「絵美、結婚しよう」
「……」
突然のプロポーズに、今度は絵美が動けなくなる。
「あはは、今度は絵美が固まっちゃったな」
「……」
「絵美、返事は?」
「えっと……」
「ちなみに『はい』以外は受け付けないからなー」
「な、何よそれ……」
「お返事は?」
「よ、よろしくお願いします」
あまりにも素直な返事だったので、圭は思わず拍子抜けする。
いつも言いたい放題の絵美のことだから、きっと何か言われるだろうと構えていたのだ。
「えっ? いいの?」
「うん」
「本当に?」
「本当だよ」
「え、マジで? 後で冗談とか言わない?」
「言うわけないじゃん、ばっかじゃないの」
「だよね……ははっ」
その後、二人はいつものように楽しい夕食のひとときを過ごした。
圭は、先日札幌で買った婚約指輪を食後に渡したら、絵美がどんな反応をするか密かに楽しみにしていた。
<了>
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました✨ 瑠璃マリコ🌠
コメント
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ラストに圭さん&絵美さんの素敵なお話をありがとうございます💕💕 朔也さん&美宇ちゃんに、蓮さん&綾さん、そして圭さん&絵美さん…👩❤️👨💕 美宇ちゃんのお兄さん&そのご婚約者さんもかな…?💕 どのカップルもラブラブで、こちらまで幸せな気分になりました🍀✨️ 今年1年間、ロマンティックなラブストーリーを たっぷり堪能させていただきました💝✨️ 瑠璃マリ先生、 コメ隊の皆さま、 来年もどうぞよろしくお願いいたします🙇

嬉しい!ありがとうございます。
素敵なお話ありがとうございました💕ほっこりしました😆