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ほほほ、と、女達の作り笑いが、流れ、夢龍は今に引き戻された。
己の葛藤に屈している場合ではない。
春香の演奏は終わり、皆、口々に形だけの世辞を言っている。
そして、ちらちらと夢龍に視線を送ってくるのだが、これもいつものことで、夢龍は面映ゆさに襲われていた。
「あー、これ、先生に、白湯はまだか?」
列の真ん中で、構える女主らしき夫人が下女へ声をかける。
どうかお構い無く。と、春香が言い頭を下げた。それを追うように夢龍も頭を下げる。
春香に言われていた。
無駄に喋るなと──。
無口な若者が、一転、抑揚を付けて吟じる。それが、醍醐味になる。だから、受け答えは春香が全て引き受けていた。
おそらく、この仕事に慣れない夢龍に負担をかけまいということと、うっかり相手方の気に触る事を喋ってしまうのを避ける為もあるだろう。
何か、春香なりに計算があるのだろうが、田舎婦人達を喜ばせるような気の利いた会話が夢龍にできるはずもなく、実に助かっていた。
襖がひらき、下女が膳を運んで来る。
徳利と香の物が乗せられていた。
──またか。
夢龍は、ちらりと春香を見た。
「奥様、せっかくのお心遣いですが、この者が吟じた後に、この様なもったいないものを頂くと喉を痛めてしまうのです」
春香は、いかにも残念そうな顔をして、一節吟じるに当たり、どれ程喉に負担がかかるか、そして、どのように日頃から体調の管理をしているか延々と述べた。
勿論、語られるようなことはないのだが、春香のあまりの真実味溢れる口ぶりに、前にいる奥方はもちろんのこと、今まで関わった者達全てが騙されていたのだった。
が、そうなると、今度は膳を用意した側の面子が潰れる。そこで、夢龍が一言、
「よろしければ、私が、酌をいたします。私の側で、奥様の喉を潤してくださいませ」
と、静かに語りとどめを指すのだ。
当然ではあるが、場は、一気に沸き立つ。
それ以上の期待を得ているようで、女主は落ちつきなく、居ずまいを正したりしている。
では、と、夢龍は膳を運んで来た下女へ、主人の前へ運び直すよう合図する。
そして、下女が立ち上がったとたん、丈の短い上着《ちょごり》から、翡翠の玉がついたかんざしが転がり落ちた。
「おや」
夢龍が言う。
たちまちに、下女は顔をひきつらせ、女主人は激高する。
お邪魔なようで……と、春香は呟き、夢龍が琴を担ぐと二人は、さっさと部屋を出た。
手癖の悪い下女のお陰で、夢龍は、なよなよと女に酌をしなくても良くなった……とは、これまた、こちらの計算通り。
「春香よ、あれは、大丈夫か?」
「ああ、あの娘《こ》も、わりきっているからね。それに、くすねた品もたいしたことなかった」
「……あの程度のものしか、あの女主は、いや、あの屋敷では、用意出来ないのではないのか?あの娘に、確認した方がよいだろう。へたすれば、今日の働き分を踏み倒されるぞ」
夢龍の言い分に、あほははは、と、春香は笑った。
「あんたも、慣れてきたじゃないか。まあ、馬にお乗りよ。後のことは、黄良に任せておきな」
芸を見せ、すぐに立ち去れるよう、予め下女に心付けを渡し、主人の装飾品を盗むようにと頼んでおいたのだ。
もし、あまりにもひどい折檻を受けたなら、春香の所へ逃げて来るようにと言いつけて──。
そして、起こった騒ぎの隙に立ち去る。
これが、春香と夢龍の手口だった。
「こうでもしなきゃ、夢龍、あんた、一生、しみったれた奥方に囲われることになるよ。逃げ道を作るだけさ」
春香は言い、黄良は、
「どうせなら、何かお宝を頂戴してこいよ」
と、続ける。
それに、春香は、ハハハと、いつも大笑いしていた……。
夢龍は、どうもこのやり方は納得できなかった。
そして、春香と黄良の堂に入った態度にも、何か引っ掛かるものがあったのだ。
しかし、確かに。
引っ掛かるものはあるが、こうでもしないと、春香の言うよう、永遠に帰れないかもしれないと、夢龍は思う。
こうして、春香は篭《かご》に乗り込み、夢龍は、春香の琴を背に結わえつけると馬にまたがり、帰路についたのだった。