──目をつけられていたのか、はたまた、今日という日を狙って、今まで張られていたのか。
春香と夢龍が、居場所である店に戻ると、客は、どこかよそよそしい。そして、給仕の女達は隅に集まり、なぜか表情が硬かった。
なによりも、出迎えがあるはずなのだがそれもない。
「夢龍、これは、やられたね。あんたは、知らぬ存ぜぬ。春香に脅されたとでも言うんだよ」
どこか、手慣れたというべきか、腹をくくったかのような開き直りさえ感じる春香に夢龍は、首をかしげた。
確かに、何かが違うのは、わかる。
いったい、なにが起こっているのだ。
夢龍が、店へ踏み込んだ瞬間、その答えとでも言うべき事態を知ることになる。
「暗行御史《アメンオサ》、出頭!!」
声高に、その、答えが響いた。
正装した、バンジャと官僚らしき風体の男が、悦に浸りながら店の奥から現れた。
連れていた自身の下僕が、夢龍が所持するべき、暗行御史《アメンオサ》の証、馬牌の札を得意気に掲げていた。
出頭の一声と、この馬牌の札を見せることにより、暗行御史《アメンオサ》の任務が遂行される。
夢龍の隣では、春香が歯軋りしていた。
何人たりとも、王直属の吏である、暗行御史《アメンオサ》には逆らえない。しかも、出頭の命を発したとなると、もう、悪事が暴かれており、証拠もあるということだ。
つまり、後は、捕まって投獄されるしかなし。
が、いったい、誰が、暗行御史《アメンオサ》なのか。そして、春香が歯軋りしながら、睨み付けている官僚の風体をした男は……。
否、なぜ、ここに、このような者達がいる。
そもそも、夢龍が暗行御史《アメンオサ》なのだ。
「密使様、さあ、下手人を捕まえましょう」
「おお、そうだな」
王の密使であるはずの、暗行御史《アメンオサ》は、落ちつきなく、どぎまぎしながら返事をした。
はははは。
と、笑えれば、事は早い。しかし、ここは堪えどころなのだろう。
こうゆうときに、出てくるはずの、黄良がいない。
逃げたか。
きっと、そうだ。
どうか、逃げ延びてくれ、と、夢龍は祈った。
そして助っ人を連れてくるはず。その時までの辛抱だ。
寸法の合ってない正装姿の密使様とやらの化けの皮も剥ぐことができるだろう。
パンジャには、残念ながら密使、いや、暗行御史《アメンオサ》としての貫禄がまるでない。
まあ、夢龍にそれがあるかと問われ、素直にあるとは、答えられないが、少なくとも両班《きぞく》育ちの夢龍の方が、奴婢階級のパンジャより、それらしく見えるはずだ。
日頃は、口達者な男も、代役、それも、本人を前にしては荷が重いのだろうか、先程から呆れるほど、小さくなって、威厳と言うものは伺えなかった。
「まったく、学徒《がくと》も、上手くやりやがって」
春香が、前に立つ男へ呟いた。
──と、いうことは、官僚風の男が、かの、宦官、京成《きょうせい》の甥であり、この地の長、南原府使、下学徒《ペョン・ガクト》ということか。
ならば、パンジャのあの気弱な振る舞いも納得できる。
学徒の手の内にいるのだ。どうしても、パンジャ自身、学徒以上の振る舞いは出来ないのだろう。
言いつけを守り、暗行御史《アメンオサ》の振りをするのが精一杯か。
ああ、この為に、パンジャは、あの夜、埋めておこうと言った暗行御史《アメンオサ》の証を掘り起こし、自分の懐にしまったののだと夢龍は思う。
「けっ、あたしが、なびかないからと、格上の暗行御史《アメンオサ》を用意しやがって……」
春香が、吐き捨てるように言った。
……なるほど。府使、では、官庁の妓籍に名を連ねる妓生《キーセン》は相手に出来ない。
暗行御史《アメンオサ》なら、その資格がある。
学徒は、春香目当てに、パンジャを暗行御史《アメンオサ》に仕立てたあげたのだ。
そして、任務を終えた暗行御史《アメンオサ》の接待に同席し、結局、最後は春香を我が物にすると、浅ましい計画性を立てたのだろう。
片腹痛いとは、この事。
と、言えれば楽なのだが……さて。
夢龍は、春香はどう出るつもりなのかと隣を見た。
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