それは、紗奈《さな》の、裳着《もぎ》の儀の席でのこと──。
貴族の女子の、元服にあたる儀式は、守近の屋敷にて、盛大に執り行われた。
当時、まだ、近江国の受領であった、紗奈の両親、主要親族も、屋敷に集まり、飲めや歌えやの、賑やかすぎる宴に興じたのだ。
そして、滞りなく儀式は、終わり、習慣通り、女性の正装、後方へ長く引き垂らす裳《も》を身につけ、髪を結い上げた姿へと紗奈は、変わったのだが、同時に、紗奈という幼名も、改めなければならない……。
しかし、何故だか、肝心なモノを、誰も考えておらず、守近含め、皆、かなりでき上がっていた為か、それでは!と、紗奈の父親が声を上げた。
「ちょうど、父上は、上野国の国司へ昇進が決まったばかり、これで、暫くは、簡単に会えないと、祝いも、守近様が、盛大に開いてくださったのだけど、そのせいで、もう、皆、へべれけ。で、父上が、やっちゃったのよ……」
あぁと、思い出すのも恥ずかしい、と、ばかりに、紗奈は、顔を歪める。
──どうでしょう、お集まりの皆様!こちらのお方様のように、慎ましく、そして、凛とした美しさに、我が娘もあやかれますよう、ここは、お方様の御名から、一文字頂戴つかまつり……。
おお!!それは、良い、近江殿、いや、上野殿、紗奈は、そもそも姫君だ!徳子《なりこ》姫に、あやかるとは、良い話しではないか!
「ってね、守近様の、後押しもあって、お方様の、徳の字を一文字頂き……、徳子と」
「えっ、そのまんま……」
タマが、笑いをこらえながら、呟いた。
「そうなのよ、タマ!まあ、ここ、の方々は、タマ、お前も含めて、名付けの腕は、やや、落ちるものがあるけれど……徳子《なりこ》だから、徳子《とくこ》って、そのまんま、すぎちゃってて!そして、そうだっ!って、女房名まで、即興で決まっちゃうし……」
「父上様が、上野国へ、お移りなされるために国元は、上野国になる。よって、出身は、上野国……ということですか?」
童子、晴康《はるやす》が、吹き出しそうになりながら、言った。
「そうそう、まあ、それは、普通の事だから、上野と、呼ばれるものなんだけど、皆、できあがりすぎちゃってるから、上野、上野で、徳子は、どこへやらよ!父上が、はいはい、なんて、返事したりして、もうー、紛らわしいわで、なにがなんだか」
「じゃあ、結局、上野、で、よかったんじゃないんですか?!上野様、じゃなかった、徳子様?」
「だから、その、わざと、やめなさいって!タマ!」
紗奈が、苛立つ。
「まあまあ、紗奈、じゃなかった、徳子、仕方ないだろう。それに、お方様の名前を頂戴しているのだ、有難い話ではないか?」
もうー!兄様まで!と、紗奈のご機嫌は、すこぶる悪くなる。
そんな、紗奈の姿を皆、含み笑いながら見ているが、ただ一人、紗奈へ膝をつき、頭《こうべ》を垂れる者がいた。
崇高《むねたか》だった。
「なんと、輝かしきお名前!それを、崇高は、軽々しく口にはできませぬ!どうか、姫君!女童子殿と、呼び掛ける事をお許しください!」
「ちょっと、崇高様?!」
紗奈は慌て、常春、童子晴康は、また、手強いのが出てきたと、揃って崇高を見る。
「あーー、女童子よ、崇高という男は、こうゆう奴なのじゃ、きっと、お家騒動を押さえるに、役立つぞ!」
髭モジャが、かしこまる崇高の姿を説明した。
「そうかぁー!崇高様!その、胸モジャを、しっかり、活かしてください!!!」
紗奈の、言葉に、晴康は、常春を伺った。
「あー、残念ながら、私も、紗奈の言わんとすることがわからない……」
だよねぇー、と、晴康も、納得している。
「つまりです!その、モジャを見せびらかせば、敵も、腰を抜かすはず!そこを突いて、我らが、陣取ればよいのです!!!」
はっ?!
皆に言葉は、なかった。思えば、国元で、お家騒動が、巻き起こっている、はたまた、巻き起こる、とは、限らない。知らせの通り、跡取りがいないと、紗奈に声がかかっただけかもしれない。
「はあー、なんだか、大捕物でも、始めるつもりかしら」
橘は、呆れつつ、崇高殿、胸もとを緩めて、モジャを見せなさい!などと、命じている紗奈を見た。
「どうでも、いいけど、いつ出立するの?暗くなってしまうよ?」
晴康の言葉に、あれ、本当に、と、橘は、言って、道々お食べなさいと、包みを常春へ、差し出した。
礼を言いつつ、常春は、紗奈へ、声をかけた。
「いい加減にしなさい!夜になってしまうだろ!」
おお、そうじゃ、そうじゃ、と、髭モジャは言うが……。
「常春殿、今からだと、都をでたとたん、暗闇ですぞ」
夕焼け空を眺めつつ、うーんと、唸った。
「じゃあー、猫ちゃんに頑張ってもらえば?猫ちゃんなら、夜空を飛べるもの」
紗奈の視線は、晴康の腕に抱かれる、一の姫猫に向けられていた。