食事にありつこうと中村は居間に上がり込み、音楽学校で起こった事を岩崎へ報告していた。
「まあ、いつものごとく、一ノ瀬女史は猛反発」
「つまり、演奏拒否ということか?」
「そーゆーこと。劇場といっても、一流所の帝国劇場とかだと、納得しただろうねぇ。しかし、神田界隈の小劇場、庶民の憩いの場の演芸場ときたら、一ノ瀬女史からすれば、場末も場末……どうして、その様な所で、わたくしがー!ってやつだよ。挙げ句、それは、岩崎男爵が後援しているときた。って訳で、岩崎、お前のところへ押しかけたのさ」
中村の状況説明に、岩崎は腕組みしながら眉をひそめる。
「で、だな。岩崎。一ノ瀬女史だけじゃない。他の生徒も反発している」
「それは?やはり、場所か?」
「うーん、多少はあるがな。発表会の日時が急遽繰り上がったのが大きい」
中村達生徒は、校長からいきなり事の次第を告げらる。部外者の男爵夫人とお咲まで参加するという話も聞かされ、挙げ句、再来週のはずの演奏会は、今度の日曜日に変更すると。この急過ぎる話に、岩崎男爵からの圧力かと、怒りが生まれているとのだと言う。
「かなり、面倒なことになっている様だなぁ。これは、明日学校へ顔を出したら……」
「ああ、岩崎。間違いなく、皆に責められるぞ?というより、今度の日曜日って、どうゆうことだよ!確かに、二週間先だったから、大方、演奏は仕上がっているが、さすがに、最後の磨きがかけられんだろう?まあ、おれも含め、学生達の怒りはそこだよ」
発表会は、それぞれの力量を見せるという意味合いもあり、個人ごとの演奏だった。
全体合奏ではない為、音を合わせるという難はないが、その分、各々の意地のようなものが生まれ、皆、放課後になると自主練習をしていた。
ひとまず、反発を押さえるため、学校の解放時間を伸ばし、練習時間を増す事で校長はまとめたらしいが、それで不満が収まるわけはない。
現に、玲子が岩崎の家へ押し掛けて来ているのだから……。
「いや、まあ、一ノ瀬女史の場合は、開催日云々というより、男爵夫人の登場って、ところかな?さすがに、男爵夫人の登場となると、自分が目立たなくなるだろ?それより、なんだ?岩崎、お前と合奏したがる理由ってのは?それもあって、お前の事を追っかけ回してるんだろ?」
中村に問われても岩崎は、答えることが出来なかった。玲子が執拗に合奏したがる理由が分からないからだ。
「まあ、目立ちたいから、だろう。一ノ瀬女史のことだからなぁ」
よくわからんと、中村も肩をすくめた。
「それより、月子ちゃんのこと、どうするつもりだ?」
中村が真顔になった。
「どうするとは?」
「あの二代目の様子、ただ事じゃなかったぜ?一ノ瀬女史とやりあって、虫の居所が悪いなんて問題じゃねぇよ。俺の所へ来い、なんて聞き捨てならない事言ってたし……岩崎、よそに女がいるのか?整理しろって、なんだ?」
「いるわけにいだろっ?!私と月子は恋仲なんだぞっ!!」
とっさに叫んだ岩崎に、中村が、ぶっと吹き出した。
「恋仲って?!あんたら、家同士が決めた見合いじゃなかったのかっ?!いつから、自由恋愛になってんの?!」
「い、いつから、と言っても……。う、腕を腕を組む為に……」
「腕組みなら、してんだろっ?!」
中村のちぐはぐな言葉に、岩崎は、そうではなくと、独り慌てきった。
「なんか、わからんが、そーゆーとこが、二代目の癪にさわったのかねぇ、で、一ノ瀬女史にキンキン言われてさぁ。まあ、おれは、知らんよ。……というか……岩崎?」
中村が、岩崎を制止した。
「……あれは?台所から、だろ?」
中村に言われ、岩崎もはっとする。
唄声が流れている。
童謡に思えたが、伸びのある良く通る声だった。
「おい!岩崎!お咲か?!」
「うん、そのようだな。ピーピーだけではなく、ちゃんと唄えるのか?!」
続けて、軽快な笑い声が続いた。
「な、中村?!あ、あれは?!」
「あれは?!って、普通に、月子ちゃんが笑ってんだろ?」
「つ、月子がかっ?!」
驚く岩崎に中村は呆れ返る。
「岩崎よ、それは、なんだ?のろけなのか、単なる呆けか、どっちだよ?!ってーか、月子ちゃんだって笑うだろ?」
中村の一言に、岩崎は愕然としていた。
月子が、笑った。すぐ俯き黙りこむ月子が……笑っている。
そして、どうしてか、その笑い声に岩崎の鼓動は高鳴って、恋仲という言葉が脳裏から離れなかった。
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