テラーノベル
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牡丹の部屋に入ってから、俊介はなかなか口を開けずにいた。
柔らかな照明の落ちるリビングも、花とムスクが混じったような甘く落ち着いた香りも、いつもと何も変わらない。それなのに今夜は、ひどく息苦しく感じた。
「どうしたの?」
ソファの向かいで、牡丹が不思議そうに首を傾げる。
俊介は膝の上で組んだ手に視線を落とした。
何度も言おうとして、そのたびに喉の奥で言葉がつかえる。
それでも、ここで引き返すわけにはいかなかった。
「……今日は、話があって来た」
「話?」
「俺たちのこと」
牡丹の表情が、ほんのわずかに止まった。
俊介は一度息を吸い、顔を上げる。
「もう……終わりにしたい」
言葉にしてしまえば、胸の奥がずしりと重く沈んだ。
牡丹は何も言わない。
ただ、静かに俊介を見つめている。
「火事の日、一花と悠真があんな目に遭って……春子さんまで亡くなって」
「その時、俺はここにいた」
あの日からずっと、胃の奥には鈍い痛みが居座っている。
一花と悠真が炎の中にいた時、自分は何も知らず、牡丹の隣にいた。
その事実は、今も俊介の胸に重くのしかかっている。
「一花に許してもらえるとは思ってない」
「だからせめて……俺にできることで、償わないといけない」
俊介は唇を噛んだ。
「これ以上、一花を裏切るのはやめる」
言葉にするほど、決意が自分自身へ突き刺さる。
牡丹への気持ちが消えたわけではない。だからこそ、ここで終わらせなければならないと思った。
「牡丹……俺たち、別れよう」
長い沈黙が落ちる。
やがて、牡丹の瞳にじわりと涙が滲んだ。
堪えるように伏せた睫毛の隙間から、一筋だけ涙が頬を伝っていく。
「……そう」
「牡丹……」
俊介が何か言いかけると、牡丹は小さく首を横に振った。
そして、涙を拭うこともせず、どこか寂しげに微笑む。
「分かったわ。俊介がそうしたいなら、私は止めない」
責められると思っていた。
泣いて縋られるかもしれないとも思っていた。
けれど、牡丹は何ひとつ求めてこなかった。
「でも、もし本当に苦しくなったら……いつでも戻ってきて」
俊介が息を止める。
「仕事も、お金のことも、何もかも」
「あなたが望むなら、私が全部どうにかするから」
「……そんなこと」
「それだけは、覚えておいて」
牡丹はそう言って立ち上がった。
俊介の前まで来ると、そっと頬へ手を添える。
柔らかな指先に触れられ、俊介の肩がわずかに強張った。
「最後の、思い出を頂戴」
「え……?」
返事を待たず、牡丹の唇が俊介の唇に重なった。
ほんの短い口づけだった。
追いすがるような激しさも、引き止めようとする必死さもない。
そこにあったのは、別れを惜しむような切ない静けさだけだった。
やがて唇を離した牡丹は、涙を浮かべたまま微笑む。
「……さよなら、俊介」
その笑顔を見ていると、胸の奥が締めつけられた。
俊介は視線を逸らす。
「……ごめん」
今の自分には、それしか言えなかった。
振り返らないようにして玄関へ向かい、そのまま部屋を出る。
扉が閉まる音が、静かな室内に響いた。
牡丹はしばらく、その扉を見つめていた。
頬には、まだ涙の跡が残っている。
けれど――。
数秒後。
その口元から、先ほどまで浮かんでいた寂しげな微笑みがすっと消えた。
「……桜井一花」
低く名前を呟く。
俊介へ向けていた柔らかな眼差しは、もうどこにも残っていない。
牡丹はテーブルの上のスマートフォンを手に取り、迷うことなく、ある相手へ連絡を入れた。
「私よ」
相手の返事を聞きながら、窓の外へ視線を向ける。
「予定を、少し早めて」
短く告げて、通話を切る。
俊介は、一花を裏切れないと言った。
だから、自分との関係を終わらせるのだと。
牡丹の指先が、スマートフォンの縁をゆっくりとなぞる。
「……そう」
誰に聞かせるでもなく、静かに呟く。
「なら、もう待つ必要はないわね」
牡丹はもう一度、閉じた玄関の扉へ目を向けた。
その瞳には、涙の名残などひとつもなかった。
#ファンタジー
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都築七美
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コメント
1件
うわあ……第37話、読み終わりました。俊介が牡丹に「終わりにしたい」って言った瞬間、胸がぎゅっとなりました。あの重そうな沈黙、そして牡丹の「分かったわ」があまりにも優しすぎて、逆に怖いくらいで……。 ラストの、涙が消えた牡丹の低い声。あれで全部持っていかれました。「予定を早めて」って、何が始まるんだろう。俊介の決意が報われるのか、それとも……続きが気になりすぎます。 都築さんの心理描写、今回もぞわぞわさせられました。素敵な更新をありがとうございます🌷