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「あの子は×××すると、2度と×××できないの、初恋相手が婚約者になってくれるのよ!【女】の幸せを掴んでくれたら親としてこれほど安心できることはないわ。そう思わない? 阿部くん」
笑っていた。
柔らかく、慈愛の仮面を貼ったまま。
言葉だけは甘いのに
中身は鉄の檻のようだった。
その光景が、何度も脳裏に焼き戻される。
忘れたくても、意識しなくても勝手に再生されてしまう。
初恋相手が
婚約者
綺麗で理想的な形
けれど
俺にも、同じ未来が待っているのだろうか。
嫌がろうと抵抗しようといつかは
名家同士の契約、
株の安定、
後継者の血統の確保
父の望む通り、
決められた相手と18歳で結婚し
事務作業としての行為をし
望まれた時期に跡継ぎを作り
そのまま一生を ab製薬 に捧げる。
俺の運命は、
最初から生まれた時に決められている。
胸の奥が、軋む。
「くっ」
胸の奥をかすめた鋭い痛みに
思わず指先がシャツを掴んだ。
こんな風に誰かを想って
呼吸が乱れるなんて
昔の俺なら笑っていた。
初めて会った時、美しい顔に惹かれて一目惚れをした。
姫と会長という距離で過ごしていく内に、
今の俺はもう、顔だけを好きだった頃の俺じゃない。
下品とも軽薄とも評される口調の中の優しさ
笑顔
今、胸が痛むのは、
たぶん恋だからだ。
いや
そんな曖昧な言葉じゃ足りない。
俺は、好きだ。
大切で
手放せなくて
名前を呼ぶだけで軸が揺れるほどに。
……愛してる。
どうして顔だけ好きだと告白したのだろう
あの時、顔だけじゃないと言っていれば…
吐き出した瞬間
空気が色を変えた気がした。
誰にも聞かれていない。
届いてもいない。
それでも、言葉はもう
戻らない。
俺は、姫としてじゃなくて佐久間自身を愛している。
ただの衝動でも憧れでもなく
自分の人生に刻まれてしまった
消せない印として。
胸の痛みはまだ残っている。
けれど、もう逃げる気はない。
たとえこの恋が
報われなくても。
それでも俺は、愛している。
車窓の外はただ機械的に流れていく。
ビルが後ろへ遠ざかり
信号が色を変え
人の影が点となって消える。
景色は容赦なく進む。
振り返らない。
待たない。
……俺の心も、こんなふうに変われるのだろうか。
佐久間を思うこの熱が
いずれ薄れて
「若かったな」と笑える程度の記憶へ
変質してしまうのだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥がきしんだ。
過去として流れていく
そんな簡単な言葉で
片付けられる感情じゃない。
本当はもう知っている。
この恋心は
流れて消えるどころか
積もって、絡んで、根を張って
俺の人生を形作ってしまっている。
車の振動に合わせて
シートに預けた背が微かに揺れた。
「……流れていくなら、それで楽になれるのにな」
声に出せば
意外と静かな独白だった。
けれど本心は逆だ。
流れて消えるくらいなら
最初から惹かれたくなかった。
一瞬の恋じゃない。
通り雨みたいに過ぎてくれない。
忘れようとするほど
輪郭は濃くなる。
追い出そうとするほど
名前が胸に沈む。
佐久間
消えない。
過去になんて
きっとできない。
車は走る。
景色は変わる。
季節も人も未来も形を変える。
それでも——
俺の恋だけは
流れずにここに残り続ける。
置き去りにされるのは
景色じゃなく、俺の方だ。
5月ゴールデンウィークを過ぎ
運命は残酷で
俺は早くも佐久間の婚約者を知った。