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第26話「線香花火たいけつ」
ぱちり、と音がして、火の粒が落ちた。
その夜の空は曇っていて、月の輪郭がぼんやりとしたまま滲んでいた。
ナギは細いベンチに腰を下ろして、膝の上で線香花火を持っていた。
着ているのは、灰の混じるうす紫のTシャツに、肩から羽織った古いカーディガン。
袖口がほつれて、指先を包みこむように伸びている。
膝下にはレースのついた紺色のショートパンツ。
誰かのおさがりのようで、少し大きかった。
火の玉が、じゅん……とふるえる。
それはまるで、自分の心のどこかが灯っているような錯覚を覚えさせた。
ユキコも、となりで同じように線香花火を持っていた。
彼女の浴衣は今夜、淡い草色。
けれど、ひとつの模様もなかった。
まるで布そのものが時間に溶けかかっているようで、
輪郭がすでに風のなかに溶けかかっていた。
「先に落ちた方が負けね」
ユキコが微笑んで言う。
「じゃあ、勝ったらなにか願いごとしていい?」
ナギは火花から目を離さずにたずねた。
「……いいよ。負けたら、それも譲る」
ふたりの線香花火が、同じタイミングで火花をちらし始める。
パチッ、チッ、ジジ……
短く、かすかな爆ぜる音が、静けさを細かく破っていく。
ナギはふと、火花の中に“顔”のようなものが見えた気がした。
それは、自分のではなく、昔の誰かの笑顔。
でもすぐに、それは煙に変わった。
「ナギちゃん」
「なに?」
「自分が何歳かわかんなくなるとき、ない?」
ナギはうなずいた。
「ある。たまに、すごく年上みたいな気がする」
「私も。たぶん、忘れたことが多すぎると、そうなるのかも」
「思い出せば、戻るのかな」
「どうかな。思い出さないままで、ぜんぶ終わるかも」
火の玉が、ふるえる。
ナギの線香花火が、すこしだけ傾いた。
風がそっと吹いた。
ぽとり。
先端から火玉が落ちた。
負けた。
ナギは、線香花火の黒い茎を見つめながら、ひとことつぶやいた。
「じゃあ──願いごと、叶えなくていい」
ユキコがふしぎそうな顔をする。
「どうして?」
「願うより、見てたい。今のこの感じを」
ユキコの火玉も、すぐに続いて落ちた。
ふたりとも負けた。
でも、それでよかった。
風が通り過ぎ、どこかから花のにおいがした。
スタンプ帳に押された印は、火の玉の形をしていた。
少しかすれて、燃え残りのように、にじんでいた。
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