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呼び出しなんて珍しいな。なにか進展があったのかな?
胸の奥にかすかな高鳴りを抱えながら、私はタクシーに乗り込んだ。すぐさま向かう。
もう随分通いなれた道。新宿の雑多な路地を入り、古めかしいビルの地下一階にそれはある。いつものようにエンビルの扉を開けた瞬間、息を呑んだ。
そこにいたのは、普段から会っている天魔とはまるで別人。神威とも違う。
黒髪はゆるく巻かれ、無造作に前髪が額に落ちている。
黒縁眼鏡の奥の瞳は穏やかで、スーツの代わりにカシミヤのジャケットと白シャツ。首元には淡い香水の香り――優しい、けれどどこか危険な匂いがした。
どこからどうみても投資家だ。
「……天魔なの?」
思わず名を呼ぶと、彼は笑った。
「印象変わるだろ」
「まるで別人ね……」
「今日から神原新次郎(かんばらしんじろう)だ。愛人の会社にデザイン依頼を出す投資家になった」
そう言って、天魔はさっと表の看板を営業中から『貸切』にチェンジさせ、静かにドアの鍵を下ろした。
「座ってくれるか。作戦と流れを共有しておこうと思ってさ」
促されるまま、カウンターのスツールに腰を下ろす。
彼は赤ワインをグラスに注ぎ、ゆっくりと話し始めた。天魔は赤ワインを好んで飲むことが見て取れる。今度差し入れに持って来ようと思った。
「デザイン依頼は成功だ」
天魔はそう言うと、カウンターの上にスマートフォンを置いた。
「見るだろ。今日の打ち合わせの様子」
画面の中に映っていたのは理咲だった。
白いブラウスに清楚なスカート、そして淡いピンクのリップ。仕事の打ち合わせのはずなのに、髪を耳にかける仕草が妙に艶っぽい。
『神原さんって、投資家なんですね。すごい。私、そういう世界のこと、全然知らなくて』
声が甘い。
夫に向けていたものとは違う、けれど同じ種類の声だった。
相手の懐に入り込み、欲しい言葉を引き出すための声。
『いや、たいしたことはないよ。運がよかっただけだ』
画面の外から、神原新次郎の声がする。
天魔の声なのに、天魔ではない。穏やかで、余裕があって、まるで別人。
『でも、運を掴む人って、すごく努力している人だと思います』
理咲が笑った。
その瞬間私は理解した。
この女は、神原新次郎という男だけではなく、その背後にある金、肩書き、成功者であることを見抜いている。そしてその隣に立つ自分の姿を。
『神原さんの奥様って、どんな方なんですかぁ?』
理咲がさりげなく尋ねた。
さりげないふりをしているだけで、目は笑っていなかった。彼女の様子が画面に映っているから。うまく撮ったわね……。
『普通の人だよ。俺にはもったいないくらいのね』
『へえ……素敵ですね』
理咲は笑っていた。
でもその笑顔の奥で、何かが燃えたのがわかった。
悔しさ。
羨望。
そして、奪えるかもしれないという期待――
私は思わず息を吐いた。
「……この子、涼二が好きだから浮気したんじゃないのね」
「だろうな」
天魔がワインの脚を指先で回す。
「欲しいのは男じゃない。自分を高く見せてくれる場所だ」
「だったら、投資話をする時はお金をちらつかせるだけじゃ弱いと思わない?」
私が言うと、天魔が目を上げた。
「どう考えているんだ?」
「“君だけに話す”って形にして。この手のタイプは特別扱いに弱いはずだから」
「なるほど。確かにそうだな」
「それから、涼二には言えない秘密を理咲自身に持たせて。隠し事は、人を縛る鎖になる」
口にしてから、自分でも驚いた。
こんな言葉を、私が言えるようになったなんて。
でも不思議と、怖くはなかった。
むしろ胸の奥が静かに熱い。
奪われた妻が、ただ泣いているだけだと思ったら大間違いだ。
私はもう、舞台袖に立っている女じゃない。
この物語の脚本を書いているのは、私だ。
「理咲には、成功しかないように見せる」
天魔はグラスを置いた。
「君だけに話す。君だから任せたい。君なら理解できる。そう言えば、彼女は“選ばれた”と思い込む」
「それで、自分から踏み込んでくる」
「そうだ。こちらから奪うんじゃない。向こうが勝手に差し出す形にする」
私は小さく頷いた。
お金も、信用も、秘密も。
理咲自身の手で、理咲自身を縛らせる。
「理咲には成功しかないと見せるんだ。それで向こうが『勝手に貢ぐ』状況を作り出す」
「なるほど。大金が必要だから、彼女が方々からお金を集めて、資金繰りに窮するから会社のお金に手を付けるって流れになるのね……」
天魔はゆっくりと笑った。
「そうだ。沙耶、君は頭もキレるし、復讐に向いている」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「もちろん、最高の褒め言葉だよ」
彼の声は低くなめらかで、心に絡みつくようだった。正体を知らなかったら、私だって同じように彼に堕ちていたかもしれないのよね。
好みを徹底的に調べ上げ、欲しい言葉をくれて、欲しい態度と優しさで心を懐柔していく。なんて恐ろしい男なの――最強の別れさせ屋の男が、私の味方でよかったと心から思う。
「で、理咲のことはどうするの? 投資話持ち掛けて、思わせぶりな態度だけ取って抱かないのよね?」
「ああ。俺は一度もターゲットと体関係になったことはない。相手を追い詰めて、昂らせて、旦那より俺の方がいいと喋らせて、裸の証拠映像撮って終わりだ」
なるほどね。さすが天魔。
「それに、抱いたら終わりなんだよ。欲望は一度叶えると冷める。手を出さないことで、ずっと燃やし続けられる」
これが『堕とす』ということ――彼の真髄を見た気がした。
画面の中で、理咲はまだ神原新次郎に笑いかけていた。
その笑顔が、罠にかかった蝶に見える。
夫は秋也に堕ちている。
愛人は神原新次郎に堕ち始めている。
どちらも、天魔がかぶった仮面だ。
そして私は、その両方の糸を、静かに指先で引いていた。
※
その翌日も、天魔は理咲と連絡を取り続けているようだった。
私はというと、涼二と相変わらずSNSを通じてメッセージのやり取りをしている。
《今 なにしてるの?》
涼二から毎回決まった時間以外にも、気軽に連絡が来るようになった。彼の中で秋也は、いい友人であり、自分が優位に立ってアドバイスができると勘違いしているのだろう。秋也は未だ脚本家を目指して頑張っている男だから。
ちなみに私は今、キッチンで洗い物をしている。水を流しっぱなしにしながら目の前の涼二に返信を送る。
《秋也の脚本術の本読んで勉強中。涼二は?》
ほんとうは、あなたの目の前で洗い物しているんですけどね。そんなメッセージを送ったらどんなに面白いだろう。きっと涼二はとんでもなく驚くんだろうな、って想像するだけで笑えてくる。
藤崎家は、今日も平和だ。
夫は食事の後、ソファーに腰かけながらスマートフォンいじり。そして愛人だけじゃなく、SNSで仲良くなった男性とのメッセージ。
私は彼が食べた食器の後片付けをしながら、夫へ破滅への罠をしかけて水面下でじっとしている。滑稽な家庭に成り下がってしまったわ。
「ねえ沙耶」
スマートフォンの画面に視線を落としたまま、涼二が私に声をかけてきた。
「なに?」
「コーヒー飲みたいな。淹れてくれない?」
「自分でやってくれる? 洗い物で手が離せないの」
前まではもっと愛想よくしていた。
コーヒーを淹れるくらい、なんてことはなかったし、むしろ喜んで奉仕していた。
でも今は違う。だからこそ不満がたまって、秋也にメッセージが届くのだ。
「沙耶、最近冷たいよなー」
スマートフォンの画面を見ながら言われてもね。
そして秋也に届くメッセージ。
《鬼嫁にコーヒー淹れてって頼まれて拒否られたとこ。萎えるわー》
鬼嫁にさせたのは誰よ。
キッチンの水を止めて彼に笑顔で声をかけた。「今、手が離せない仕事が増えてきているの。持ち帰りの仕事するから、邪魔しないでね」
会話を打ち切ってリビングを退散した。
《かわいそうに涼二。ボクがコーヒーを淹れてあげたいよ》
《秋也いいやつ~!》
このやり取りをしているのが、隣の部屋に引っ込んだ鬼嫁だと知ったら涼二はどんな顔をするのかな。
その時、また画面が震えた。
《なあ秋也》
《今度、会わない?》
私はスマートフォンを見下ろしたまま声を殺して笑った。
涼二。
とうとうあなたから、地獄の扉を開けたのね――
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コメント
1件
うわああ第5話もめっちゃ面白かった…!!😭💕 沙耶が完全に脚本家側に回ってるの本当にカッコよすぎる…!「この物語の脚本を書いているのは、私だ」のとこ、鳥肌立ったよ…✨ 天魔の変装にもっと驚くかと思いきや、もう完全に信頼し合って作戦練ってるの尊すぎるし、キレッキレの頭脳戦に胸熱すぎる!! ラストの「地獄の扉を開けたのね」でゾクゾクした…次が待ちきれないよ!!🌸🔥
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