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『次の満月の夜も待ってる。来るまで待つから。凍死したら化けて出てやる』
また会いたいと言う満夜の言葉をことごとく無視して、逃げるように帰って来た私のバッグには、そんなメモが入っていた。
いつの間に……。
今度は、殴り書きでも、乱暴に破ったものでもなかった。
会えるはず、ない。
着替えもせずに座り込んでいると、バッグの中から着信音が聞こえた。相手を確認して、〈応答〉をタップする。
「はい」
『越野調査事務所です。お電話いただいたようで』
低く、穏やかで、力強い男性の声。
「そちらに、主人の――別れた主人と相手に関する調査依頼がありましたら、私の時の報告書を渡してあげてください」
『え――?』
「費用が発生するようでしたら、私がお支払いします。依頼人が追加調査を希望したら、その分も」
『ちょっと待ってください。依頼人て、もしかして――』
「――よろしくお願いします!」
電話なのに、私は勢いよく頭を下げた。
越野さんには見えていないけれど、きっと伝わったと思う。
『わかりました。あなたと同じ調査対象の依頼があったら、あなたへの報告書をお渡しします。その分の費用は発生しませんが、追加調査を依頼されましたら、費用はあなたに請求します。よろしいですか?』
「……はい」
『追加調査の調査対象があなたでも、ですか?』
「はい」
『あなたに責任はないんですよ? あなたは被害者なんだから』
「わかって……ます」
『優しすぎますよ、あなたは』
「……よろしく……お願いします」
スマホの電源を切り、私は部屋を飛び出した。
私は優しくなんかない。
本当に優しかったら、彼に近づいたりしない。
彼に抱かれたり、しない。
闇雲に歩いて、目に入った美容室のドアを開ける。
「いらっしゃいませー」と、学生にも見える若い男の子が私に近づいた。
「予約してないんですけど、いいですか?」
「はい! メニューはお決まりですか?」
「カットで。ショートに、したいんです」
「わかりました。お荷物をお預かりします。メニューカードをお作りしてもいいですか?」
男の子が満面の笑みで聞く。
とにかく何か変化が欲しくて、衝動的に髪を切ろうとこの店に入った。
再び訪れることはないだろう。
けれど、目の前の彼は、そんなことは知らない。
「名前だけでも……いいですか?」
「え?」
「近々引っ越すので。下の名前と、携帯番号だけでもいいですか」
変な客だと思われているはず。
それでも、彼は笑顔を崩さずに言った。
「構いません。では、こちらに差支えのない範囲で構いませんので、ご記入をお願いします」と、クリップボードに挟んだメニューカードを差し出す。が、ハッとしてそれをカウンターに置いた。
「あ! すいません。その前にコートとバッグをお預かりします」
自然と、口元が綻ぶ。
こんな状況で、笑えるとは思わなかった。
私はコートを脱いでバッグと一緒に彼に渡した。代わりに渡されたメニューカードを、ソファに座って書く。
『満月』と、名前を書いた。
奥から私と同世代の女性が現れて、男の子からカットを希望だと伝えられる。
女性は腰まである栗色の緩いパーマヘアを、うなじでひとまとめしているだけだが、とても女性らしく柔らかい雰囲気で、私とは正反対だなと思った。
彼女は鏡に向かって座る私の背後に立ち、髪を持ち上げて見た。
「満月……さん?」
「はい」
「綺麗な髪ですが、本当にショートにしますか?」
「はい」
「では、切った髪を寄付していただいてもよろしいですか?」
「え?」
男の子がA4サイズの紙を差し出した。
それには、『あなたの髪が、誰かの希望になる』というキャッチコピーと共に、NPO法人の活動内容が記されていた。
「切った髪でウィッグを作って、病院や施設に寄付をしているんです。病気で髪を失くした方のために。ご協力いただけますか?」
「はい!」
誰かの希望になる。
その言葉が、私の希望になった。
聞けば、女性は店長で、男の子は春に専門学校を卒業したばかりの見習い美容師だった。
シャンプーやパーマ、カラーの手伝いをしつつ、マネキンでカットの練習を重ねているのだと言う。
寄付の為に、緩く髪を結ばれ、結び目の上をカットされた。
鏡越しに、肩の位置で広がった自分の髪を見て、スッとした。
ありきたりな表現だが、生まれ変わったような気分になった。
店長は私の髪をトレイに載せ、男の子に渡した。
男の子は鏡越しに私を見て、少し口をもごもごさせてから、言った。
「図々しいお願いですが、カットモデルになっていただけませんか?」
「え?」
「俺――じゃなくて僕、まだ人の髪を切ったことがなくて、カットモデルを探してるんですけど、見つからなくて。良かったら、切らせてもらえませんか?」
隣の店長が目を丸くした後、とても柔らかい微笑みを浮かべた。それから、視線を私に移す。
「仕上げは私が責任を持ちますので、お願いできませんか? もちろん、お時間があればなんですけど」
「いいですよ。お願いします」
二時間後。
彼はとても嬉しそうに、何度も私にお礼を言った。
カットの最中は何度も店長にダメ出しされて、それでも真剣な表情を崩さずにハサミを操り、見ている私まで身体が強張った。
彼の仕事に、店長は六十点をつけた。そのうちの二十点は、私にカットモデルを頼んだ勇気への評価だった。
店長は事細かにダメ出しをして、その後で容赦なく私の髪にハサミを入れた。
彼の仕上がりでは、前下がりのボブだったが、店長が手を加えると、真後ろの内側は少し長めに残し、外側は短く、軽く、頬から首のラインに沿うような動きを作り出した。
さすがだ。
自分でも、今までどうしてこんな髪型にしなかったのかと思うほど、しっくりきた。
「頭が軽くなって、シャンプーも楽だし少量で済む。手櫛でブローして、毛先にワックスをつけて遊ばせるだけで完成だから楽ですよ。ついでに、うなじがチラ見えすると、色気アップです」
鏡越しに店長と笑い合って、私は通常のカット料金の半額を払って店を出た。
「ありがとうございました、満月さん! ぜひ、また来てください」
男の子は直角に腰を折り、頭を下げた。
「こちらこそありがとうございました。すっきりしたし、お役に立てて、生まれ変わった気分です」
帰りの、私の足取りは軽かった。
見上げた空は青く、それだけで幸せを感じられた。
コメント
1件
もしかして満夜の逃げた奥さんって満月の旦那さんの浮気相手なの?