愛別苦離
心臓を渡した瞬間、世界が遠ざかっていった。
光がほどけて、
形のない温度だけが身体に残った。
これが本当の“死”なのだと、
妙に冷静に理解していた。だが意識は消えなかった。
むしろ、前より鮮明になったくらいだ。
――もう一度だけ、あの子に会いたい。
その気持ちだけを抱きしめて、
僕は病院の105号室を目指した。
重力はもう僕を縛らない。
歩くことも、扉を開ける必要もない。
ただ心が向かう場所へ、
風のように流れていく。
病室の灯りは柔らかく、
深夜の静けさに溶けていた。
ベッドの上では、
あの子が静かに呼吸をしている。
生きている。
その事実だけで、胸が熱くなった。
――よかった。本当に、よかった。
僕はそっとベッドのそばに座った。
彼女は気づくはずもない。
だけど、あの頃と変わらない、
心を覆う優しい空気がそこにあった。
「ねえ、」
僕は名前を呼んだ。
声は風のようにかすれながらも、
確かに室内に流れた。
そのときだった。
まぶたが震え、
ゆっくりと開いた。
偶然だったのか、それとも――。
「……だれ、か……いるの……?」
か細い声。
僕は息を呑む。
幽霊になった僕に気づく人など、
もういないと思っていた。
「僕だよ。」
何度も言いたかった言葉を、
今ようやく吐き出した。
彼女の視線が宙をさまよい…
そして僕のほうへ、かすかに止まった。
「……なんで……泣いてるの?」
気づいた。
僕の涙を。
幽霊の涙に触れられるはずなんてないのに。
でも彼女は見えているのではなく
――“感じて”くれているのだと、
直感でわかった。
「助けてくれて、ありがとう。」
僕は首を横に振る。
「助けたかったのは僕のほうだよ。
君が生きてくれるだけで…十分すぎるんだ。」
彼女は涙をこぼしながら微笑んだ。
「……ずっと、会いたかった。
でも、あなたが消えちゃうんじゃないかって、怖かったの。」
「大丈夫。今だけは、ちゃんと話せるよ。」
言葉を交わせる時間がどれほど残っているか、わからなかった。
でもその一瞬一秒が、
永遠に近いほど愛しかった。
「あなたは……ずっと空を見てたよね。」
「うん。
君が来るたびに、空の色が変わった気がしてた。」
彼女は少しだけ笑って、
「私、もう結婚してて……」
と、苦しそうに言った。
「知ってるよ。」
「それでも、あなたに……ありがとうって言いたかった。」
「あなたがくれた夏、花火、会話…全部、全部、宝物だった。」
その言葉だけで、
この世の全部の光のような幸福が胸を満たした。
「ねえ、最後に聞いてもいい?」
彼女の声は震えていた。
「…あなたの名前……教えて。」
ああ。
それだけは、生きていたころに言えなかった。
「――……。」
僕が名を口にした瞬間、
彼女はふっと目を閉じて、
泣き笑いのような表情を浮かべた。
「とっくに、好きだったよ。」
心臓が止まったはずなのに、
胸が苦しいほど痛んだ。
それでも、心は凛と澄んでいた。
「ありがとう。
僕の命、全部、後悔してない。」
ゆっくりと透明になっていく身体。
まるで空へ溶ける水蒸気みたいに、
僕は軽くなっていった。
彼女の手が、空を探すように伸ばされる。
触れられないはずなのに、
その仕草だけで満たされた。
「さようなら。」
言葉はそっと彼女の耳の奥に落ちていった。
そして僕は完全に世界から消えた。
コメント
5件
駄目だ死ぬわこれ
心は凛と澄んでいたっていう表現綺麗すぎる…🫧✨