月曜日。
社内は衝撃に包まれた。
鷹文退職のニュースは朝のうちに伝わり、みんなが口々に噂を広げた。
「ねえ一華さん、本当に課長は辞めてしまうんですか?」
可憐ちゃんもなんだか元気がない。
「そうね」
「何でですか?」
「うーん、色んな事情があるのよ、きっと」
「私、課長のこと好きだったのに」
がっかりですと含みを持たせる。
そりゃあね、このタイミングで辞めれば逃出したように見えるだろう。
でも、鷹文だって好きで退職するわけではない。
せめて気持ちよく送り出してあげたい。でも、無理かな。
「実家の仕事をどうしても継がないといけなくなったんだって。仕方ないよ」
「でも・・・」
まだ納得できない顔をした可憐ちゃん。
その気持ちはフロアのみんなが一緒だった。
鷹文は課のリーダー。
みんな彼を信頼し、尊敬していた。その分裏切られた気持ちも強い。
予想はしていたけれど、空気は悪くなってしまった。
どうしたものかと思っていると、
「みんなちょっと聞いてくれ」
部長が声を上げた。
一斉にみんなの視線が集まる。
「髙田課長のことは聞いたと思うが、今月一杯で退職することになった。みんな思うところはあるだろうが、あいつも苦しんで出した結論だ。笑って送り出して欲しい」
いつもの部長とは違う穏やかな口調に、驚いた。
しかし、この後もっと驚くことが起きた。
「失礼します」
廊下の方から聞こえてきた声。
それはよく知っている声で、でもここで聞くはずのない声だった。
う、嘘。
入ってくる人を見て固まった。
***
「せ、専務」
部長が立ち上がり、みんなが一斉に注目する。
「突然申し訳ない。髙田課長のことで一言話がしたくてきました」
いきなりの専務登場に、シーンと、誰も言葉を発することなく立ち上がる。
「実は、私は彼から事前に退職の話を聞いていました。もちろん説得もしましたが、ご実家の事情もあり引き留めることができませんでした。申し訳ない」
お兄ちゃん。
出そうになった声をやっと飲み込んだ。
「彼は良い人材でした。きっとこの先の鈴森商事を背負って行ってくれると思っていただけに残念でなりませんが、彼にとっても苦渋の決断であったことを理解していただきたい」
どうして、お兄ちゃんはここまでしてくれるんだろうか。
「それと、今まで起きていた取引停止やネットでの嫌がらせは解決しました。詳細は改めて報告が出ると思いますが、従来の取引先はすべて復活し、新たに大口の取引先との契約も決まりました。営業の皆さんは特に心配だったろうと思うので、先にお知らせします。これから益々忙しくなると思いますがよろしくお願いします」
力強い言葉に
「「はい」」
みんなの声がそろった。
すごいな、お兄ちゃん。
一気にフロアの空気が変った。
「山川部長も、しばらくは課長不在となり負担が増えますがよろしくお願いします」
「はい」
部長も直立不動で返事をした。
良かった、これで鷹文を笑顔で送り出せる。
私は心から感謝した。
しかし、すぐに後悔に変わる。
「それから・・・」
グルリと辺りを見回したお兄ちゃんが、
「一華」
突然声を上げた。
え、ええ。
ここで呼ばれるはずのない名前に、身動きできない私。
「一華」
再度呼ばれ、私は顔だけ上げた。
「話がある、ちょっと来い」
嘘だよね。
ここに私でない一華が・・・いるわけがなかった。
お兄ちゃんの視線は、真っ直ぐに私を見ている。
「先輩?」
可憐ちゃんが小さな声で呼んだ。
「部長、申し訳ないが妹を借りていきます」
ツカツカと近寄ったお兄ちゃんに腕を掴まれ、私は連れ出されてしまった。
***
「ほら、そんなに泣かないで」
麗子さんが背中をトントンと叩く。
ウ、ウウウ。
私は悔しくて泣き続けた。
「どうせいつかはバレるんだ。潮時だったんだよ」
悪びれもせずに、言い放つお兄ちゃんに腹が立つ。
この6年間、一生懸命仕事をしてきた。
誰にも負けたくないとがむしゃらに働いた。
それもこれも、すべて無駄になる。
私が社長の娘だって知れば、みんなの視線が変るだろうから。
どんなに頑張ったって、まともには評価されなくなってしまうんだ。
ウ、ウウウ。
嗚咽が止らない。
「一華、今日は好きなだけここにいろ。部長には連絡しておくから、このまま帰ってもかまわない」
「そんなこと、ヒック、しないわよ」
このまま逃出せば、2度と戻れなくなる。
「じゃあ、落ち着くまでここにいろ。そして、もう逃げるな」
逃げる?
「私は逃げてなんか」
「逃げてるだろ、現実から」
ウッ。悔しいけれど、当たってる。
「どんなに逃げたって、お前が鈴木一華であることに変わりはないんだ。いい加減に受け入れろ」
これは、お兄ちゃんだから言える言葉。
そうやって、現実を受け入れてきたんだものね。
私はずるいなあ。
「運命を受け入れる決心をしたあいつの為に、お前も覚悟を決めろ」
言葉は強いけれど、声は優しかった。
「お兄ちゃん」
いつも強気で、強引で、ちょっと怖くて、苦手意識が先に立ってしまうお兄ちゃん。
でも、鈴森商事の跡取りとして必死に虚勢を張っていたのかもしれない。
「一華ちゃんは私が見ておくから、専務は会議に行ってください。時間が押してます」
さすが秘書。麗子さんがそれとなくお兄ちゃんを追い出してくれる。
「ああ、じゃあ。良いか、無理するなよ。このまま帰っても良いから。いいな?」
「うん」
大丈夫。これだけ泣いて少しはすっきりしたから。
頼んだぞと麗子さんい言い残し、お兄ちゃんは出て行った。
***
「紅茶を変えましょうか?」
冷めてしまったミルクティーを下げようとする麗子さん。
「いいえ、もう十分です」
「そう、大丈夫?」
「はい」
正直大丈夫と言い切る自信はないけれど、やれることをやるしかない。
「孝太郎もかなりショックを受けていたわ。髙田課長のことはかなりかっていたから」
「そうですか」
てっきり嫌っているんだと思っていた。
「でもね、跡取り息子としての責任を果たしたいって気持ちを聞いて反対できなくなったのよ」
そうだろうな。
お兄ちゃんは人一倍気持ちがわかるはずだから。
「できることなら彼について行きなさいって言いたいところだけれど、そんなに単純な話じゃないのよね?」
「ええ」
浅井に戻った鷹文に、私は何もしてあげられないだろうから。
足手まといになるばっかり。
ブブブ。
メールだ。
あれ?小熊くん。
『部長には止められたんですが、こんな時にすみません。山通の見積もりって持ってますか?急ぎ必要でして、必死に探していますが見つかりません😭』
ビジネスメールのくせに涙の絵文字がいかにも小熊くんらしい。
そしてこの空気を読まない感じも、今時の子だね。
「麗子さん。紅茶ごちそうさまでした。私戻ります」
「本当に大丈夫?」
「はい。私1人逃げているわけにはいきませんから」
「そう。じゃあ頑張って」
麗子さんの笑顔に送られ私は自分の部署へと戻った。
***
やはり、フロアの空気は重たかった。
私が戻っても近づいてくるのは小熊くんだけで、みんな遠巻きに見ている。
「はい、これ見積もり」
引き出しにしまっていた見積書を渡すと、
「ああー、良かった」
小熊くんは大げさに喜んで見せた。
「ごめんね、私が持っていたから」
探させてしまったことを謝る。
「良いんです。あの、あんまり気にしないでください。みんな驚いているだけですから」
「うん。ありがとう」
あの小熊くんに心配されるなんてと思いながら、気遣いがうれしかった。
一方、今までなら必ず寄ってきてくれた可憐ちゃんは完全無視を決め込んでいる。
何度か声を掛けようかと思ったけれど、できなかった。
その日一日、ひたすらデスクに向かい時間を過ごした。
一方、午前中会議に呼ばれていた鷹文も、午後にはフロアに顔を出した。
忙しそうにデスクの整理をしていたかと思うと、会議室に籠もって部下1人ずつと面談をし業務の引き継ぎをしている。
何だろう、私1人が蚊帳の外。
疎外感を打ち消すように、私は黙々と雑務を片付けた。
***
「オイ、一華」
不意に声を掛けられ、驚いて見ると目の前に鷹文がいた。
「ごめん、どうしたの?」
「どうしたのじゃないだろう。もう7時だぞ。急ぎの仕事がないなら帰れ」
「ああ、うん」
いつの間にそんな時間だったんだ。
「大丈夫か?1人で帰れるか?」
すでにほとんどの人が退社し近くに人がいない為、鷹文の口調はプライベートのもの。
「鷹文は帰らないの?」
「ああ、この後予定があるんだ」
「ふーん」
やっぱり忙しいんだね。
「お前は大丈夫?」
「うん」
本当は全然大丈夫じゃないけれど、鷹文には愚痴れない。
私よりもっと大変なはずだもの。
「気をつけて帰れよ」
「うん」
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