テラーノベル
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A型は真面目で几帳面、和を尊ぶ。対するO型は、寛容でバイタリティ溢れるリーダー気質。
世間一般で言われるこの血液型診断によれば、両者の相性は「最高」の一言に尽きる。
繊細なA型を、包容力のあるO型が大きな愛で包み込む。
それはまるで、パズルの最後のピースがピタリと嵌まるような、運命の組み合わせのはずだった。
しかし、そんな「理想の夫婦」が築いたはずの平尾(ひらお)家には今、凍てつくような沈黙が流れている。
職責上、凄惨な事件に首を突っ込まざるを得ない自分に対し、家庭内でまで平然と「無理難題」を押し付けてくる妻、紗耶香(さやか)に夫、典明(のりあき)は困惑していた。
娘の為に早く帰る事、なるべく事件性のあるものには関わらない事。
そんな妻の無邪気な願いに彼は、内心で「やれやれ」とため息を吐いた。
今晩、帰りの遅い原因となった地下鉄通り魔事件。
典明は大学時代から困った人を助ける、身内を失った遺族らを支えると心に決め、司法試験に合格し、襟に弱きを助ける誓いの証の『徽章』をつけた。
その両極を常に天秤にかけ続ける日常は、彼の神経を容赦なく削り取っていく。
夕食の幸福な余韻を断ち切るように、脱衣所までついてくる小さな足音。
「加奈子(かなこ)!」
背後から放たれた、法廷での閉廷宣告よりも鋭い喝が入る。
典明は余裕の笑みを浮かべて妻を制する。
「俺に任せて」
典明は娘をひょいと抱き上げると、意気揚々とベッドルームへと進軍した。
これこそが、外では決して見せることのない父親としての真骨頂、“寝かしつけ”という名の聖戦の始まりである。
しかし、戦場は予想以上に過酷だった。
ベッドに下ろされた加奈子は、まるで魚のように跳ね、掛けようとする布団を無邪気な足蹴りで跳ね除ける。
一度、二度、三度。
一筋縄ではいかない幼い抵抗に、エース弁護士の冷静な忍耐もついに限界を迎えた。
典明は一つ溜息をつき、とうとう「禁断の言葉」を放つ。
「悪い子には、Do Manがくるぞ」
その名を耳にした瞬間、加奈子は弾かれたように動きを止めた。
先ほどまでの無邪気な抵抗が嘘のように、神妙な面持ちで布団を首元まで引き上げる。
かつて、布団を跳ね除け続ける娘を屈服させるために、典明があみだした魔法の言霊。
それが『Do Man』だった。
腹を隠さないと、Do Manがへそ(胴)を盗りにくる――。
半分は戯れ、半分は窮余の一策として放ったその脅しは、驚くほど劇的な効果を発揮した。
以来、Do Manの名は我が家において、寝冷えという名の病魔から娘を救い出す、絶対的な守護の禁句となったのだ。
その威力は、論理と証拠を重んじるはずの法律家である典明や、現実主義者の紗耶香ですら、畏怖の念を禁じ得ないほどだった。
発見したあの日、夫婦で顔を見合わせ、言葉にできない感銘を分かち合ったのを今でも覚えていた。
「よし、いい子だ」
嵐が去った後のような静寂の中、典明は愛おしさを込めて布団の端を整えた。
娘の寝顔を見届け、ようやく「父親」としての責務を果たした彼は、娘の丸まった背中を優しく撫でる。
見事なまでの魔法の成就に、内心、勝利の美酒を味わうかのような充足感を覚えていた。
「ねぇ、それやめてよ。本当に来たらどうするのよ」
寝室を出るなり、紗耶香が本気で眉をひそめて詰め寄ってきた。
強妻と名高い彼女ですら、その得体の知れない響きに気圧されている。
典明は、そんな彼女の反応すらも愉しむように、軽やかな笑みを漏らして脱衣所へと向かった。
「あんなのただの都市伝説だよ。Do Manなんてこの世にいるわけないだろう」
幼少期から耳にしていた、出所不明の怪異。
誰が広めたのかも、何を象徴しているのかも判然としない。
いつしか、どこかの胡散臭い霊媒師が番組の盛り上げに使い古すほどの、手垢のついた魔法の言葉だ。
風呂から上がると、家の中は穏やかな寝息に包まれており、愛する妻と娘が待つ温かな眠りの中へと、静かに身を沈めた。
「明日は久々の休みだな。三人でお出かけでもするか」
その一言が、眠りにつきかけていた家庭に再び柔らかな火を灯した。
加奈子が歓喜の声を上げてベッドの上で飛び跳ね、静まり返ったはずの家がにわかに活気づく。
エース弁護士としての鋭い双眸を細めた典明は、妻と顔を見合わせた。
頭の中では、愛する家族と過ごすための完璧な行楽プランが、いくつもの勝訴シナリオのように組み上げられていく。
だが。
幸福の温もりに満ちた玄関先の外側では、不穏な「何か」が胎動していた。
典明が放った「禁断の言葉」に誘き寄せられたかのように、壁を伝って醜く萎びた影が這い寄る。
それは、人の営みが放つ温かな幸福を糧とする、冷徹な捕食者。
不純物の一切ないウィングチップが鎮座するその扉の向こうで。
実体のない冷たい指が静かに、確実に「家族」へと手を伸ばしていた。
時刻は二十三時。
家族が夢の中で、まだ見ぬ明日の旅路に胸を躍らせている頃。
暗闇に紛れた影は、彼らの時間を根こそぎ奪い去る準備を終えていた。
この幸福な家には、約束されたはずの「明日」が決して訪れないことを。
まだ、誰も知らない。
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