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矢嶋は廊下で待っていた。私の姿を認めて、大股歩きでずんずんと先へと進んでいく。
その後を小走りで追いながら、私は彼に訊ねる。
「お手伝いって、時間かかりますか?私、夕方まで出さなきゃいけない原稿があって、あんまり長い時間は手伝えないんですが。会議もあるし……」
「さっき言った通り、そんなにかからない」
矢嶋は短く答えたきり、再び黙々と私の前を歩き、一階に降りていった。通用口近くの倉庫に入って行く。
この場所に来たということは、何かを探すか運び出す手伝いでもさせられるのだろうかと思いながら、私は彼の後に続いた。
倉庫の中には、様々な宣材や、出番がなくなった機材、ポスターなどが所狭しと置かれていた。そのうち整頓しなければ、と中沢がこぼしていたことを思い出す。
「何をすればいいんですか?」
訊ねた途端、背後でバタンと扉が閉まった。それと同時に、腕を取られた。驚いた時にはすでに目の前に矢嶋がいて、私の背中には壁があった。
「せ、先輩?」
いったい何事かと私は目を見開いて、矢嶋を見上げた。彼の両手は今、私の顔の両側にある。
「先輩って呼ぶな。それからお前、簡単に男に触らせてるんじゃないよ」
「は?」
私は彼の言葉にぽかんとした。この人はいったい何を急に言い出したのか。
「あの、何か手伝うことがあるんじゃ……」
「そんなものは口実だよ。ひと言言わなきゃ気が済まなくて、お前を連れ出すために適当に言っただけだ」
私は呆気に取られる。
「なんで、そんなこと」
「だから、今言っただろ。男に簡単に触れさせるなって。こないだから、いったいなんなんだよ。飲み会の時は市川、ここでは辻さん。もっと危機感を持てよ」
一方的な矢嶋の物言いにカチンとした。私は彼をにらみつける。
「危機感って、何言ってるんですか。先輩の方こそ、意味が分かりません。だいたいですね、市川には藍子っていう彼女がいるんです。辻さんにしたって、ちょっと触れられたくらいですよ。あれくらい、どうってことないでしょ」
「あれは、ちょっとなんてものじゃなかった」
矢嶋は眉間にぐっとしわを寄せた。
彼の反応は謎過ぎた。
「どうしてわざわざそんなことを、先輩が気にするんですか?」
「だから、先輩って言うな」
「そこじゃなくて、そういうことを気にする理由を聞いてるんですっ」
私は苛立ちもそのままに、強い口調と眼差しで彼に訊ねた。
すると、はぐらかすことをようやく諦めたのか、矢嶋は私から目を逸らし、ぼそりとした声でつぶやく。
「……嫌なんだよ」
「何が?」
「だからっ!お前と他の男との距離がやたら近いのが、嫌なんだよっ」
感情を抑えたような彼の声に、心が落ち着きを失くす。
「嫌って、誰が……」
「俺が、に決まってるだろ」
答える彼の表情は不貞腐れているように見えた。
私はごくりと生唾を飲む。彼の顔を正視できなくなり、目が泳ぐ。
「決まってるだろと言われても……」
いつも私をからかってばかりで、おかしなあだ名で私を呼び続けてきた彼。その人が、他の男の人が私に触れるのを嫌だと言っている。その意味は、普通に考えればそういうことなのかもしれない。だが、しかし――。
私は震える声で言い返す。
「私が誰に触れられようが、誰に触れさせようが、矢嶋さんには関係のない話でしょ」
「関係ある」
「どんな関係があるって言うんです」
まるで禅問答だと思いながら、私は固い表情で矢嶋を見上げた。
彼は意を決したかのような真剣な顔をしている。
「お前が好きだったんだよ。学生の時からずっと」
「……っ」
私は絶句した。真っすぐなその視線を受け止めきれず、目をそらす。これまでのことを思い返せば、彼の言葉をそうやすやすと信じられるわけがない。だからこの鼓動の脈打ち方は、何かの間違いに決まっている。
「またですか。顔を合わせる度に私のことは酒の肴扱い。変な呼び方して、いつもからかってばっかりだったくせに」
言っているうちに、その時々に感じた怒りが再燃する。
「私をおもちゃにするの、もうやめてください。不愉快です。用事がないなら、もう戻ります。派遣とは言え、これでも忙しい身なんですから」
言い捨てて、私は矢嶋の前を通り抜けようとした。