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#ワンナイトラブ
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◆
「柿原さん」
次の日、昼休憩を告げる音が聞こえると、受付まで降りて行儀よく立つ彼女の名を呼ぶ。すると彼女はすぐに振り向き嫌味のない綺麗な笑顔をくれた。
「穂波さん、どうしたんですか?」
「よろしければ……」
と、先を告げるのは何だか烏滸がましい気がして、言いかけた言葉は空気と一緒に口の中に呑み込んだ。
「なんですか?」
「ランチに行きましょう」
気取られないように人差し指で眼鏡を掛け直し、凛として告げれば彼女は瞬きを何度かして「はい」と綺麗に顔を綻ばせた。
そうしてやってきた、会社の近くにあるカフェ。
やってきたのはいいものの……どう切り出そう。
『どうして常葉くんに近寄るの?』
率直に言えれば良いのに、『どうして?』がブーメランとなり胸に刺さる未来しか見えない。あぁ、どうすれば……。
もうパスタも食べ終えて、グラスに結露がはりつくオレンジジュースだけしか残ってない。
「言いたい事、あるんでしょう?」
軽く後引く柑橘の苦味を堪能していれば、私の考えを見透かしたように彼女は口を開いた。
まっすぐに見据える瞳は、私に何かを訴えているようだった。急いで頭を回転させていると、ある言葉が過ぎる。
『社内で誰が付き合ってるとか、大体分かりますよ』
…………まさか。
「……柿原さん、もしかして、気付いてます?」
含みをみせて恐る恐る尋ねれば、彼女は二重の瞳を半月状に細めた。
「はい。常葉さんと、お付き合いされてますよね?」
「……そ、れは」
「大丈夫です、口外はしませんよ」
「……そう」と、相槌を打つけれど、”だったら何故”再び同じ疑問が占領する。
『……誘ったの、向こうだから』
緩やかに、旺くんを問い詰めた時に聞いた言葉が蘇る。失礼かもしれない、だけど、聞かずにはいられない。
膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめて、綺麗な笑顔を作る彼女を捉えた。
「もしかして、本間くんとの事も……知ってました?」
「はい、知ってました」
「……柿原さんは、本間くんの事……好きだったんですか?」
「いいえ、ちっとも」
柿原さんは悪びれる様子もなく、涼しい笑顔で答えた。よくもそんな平然と答えることが出来るな、と、呆れて短い息が零れる。
今は他人事のように聞ける。だけどあの頃、確かに私は心が潰れかけたって言うのに。
「……どうしてそんな事が出来るんですか?身体だけの関係が〝楽〟だからですか?」
指先も震える、でもそれを故意に握りしめて堪えた。問い詰めると、「違います」そう言った柿原さんの長いまつ毛が下を向く。
「……私、受け付けなので、穂波さんが毎日残業で残っているの、知ってるんですよ」
それから、と、こちらを見上げた彼女の瞳は何か意思が込められていた。
「本間さんが良く、職場の女性を持ち帰っているのも知ってました」
「……え?」
「本間さんの女癖の悪さは有名でしたから、知らないのは穂波さんくらいですよ。……それが許せなくて」
それで、と、柿原さんは何か言葉を続けたけれど最後の方はよく聞こえなかった。
だけど、ここまできて有耶無耶には出来ずに口を開く。
「もしかして……私の為に?本間くんと別れさせたくて、したんですか?」
冗談めいた言葉を告げれば、彼女は申し訳なさそうに頷いた。
どうして自分の身体を使ってそんな事を……。
頷いた事が信じられなくて、静かに首を振って捨てるように息を吐き出す。
「それが一番効くと思ったんです。……ごめんなさい」
「もし、そうだとしても……どうしてそんな事を、柿原さんがする必要があるんですか」
「私、穂波さんのこと好きなんですよ」
…………好き?
呆気に取られて眉間のシワを深くした。寸分遅れて、彼女は「あ、もちろん、変な意味じゃなくて」と、慌てて説明を足した。
……それでも、私が柿原さんに好かれる理由が見当たらない。
何故なら今でこそ、こうやって話すようになったものの、少し前まで毎朝顔を合わせるだけの関係だったからだ。
「私、社内で嫌われてるでしょう?特に去年は酷くって」
首を傾げていれば、柿原さんの可愛らしい声が答え合わせを始める。
確かに度々女子トイレや給湯室で、彼女の陰口を聞いた覚えがある。
〝媚び売るだけで羨ましー〟
〝部長たちからお小遣い貰ってるって噂じゃん〟
〝部長じゃなくて、専務の愛人でしょ?〟
だけどそれは根も葉もない噂でしかなくて、実際のところただ単に可愛らしい柿原さんに対する僻みなのだろう。
そう思って、私は…………。
「穂波さんは庇ってくれましたよね」
〝柿原さんは毎朝その人に合わせて挨拶の言葉を変えてくださる細やかな気遣いができる方です。取引先の重役はもちろん、一度営業でいらした社員の事も覚えてますよ。こんな所で陰口叩く暇があれば、柿原さんよりも優れた行動をなさったらいかがですか〟
煩くて思わず反論をした事が、確かにある。でも、
「……どうしてそれを」
素直に零せば、彼女は綺麗な笑顔のまま、静かに答えた。
「たまたま、聞いてたんです。穂波さんって怖い人ってイメージでしたけど、初めて認められた気がして。……それ以来、穂波さんのことが大好きになりました」
柿原さんはそう言うと、綺麗にカールがかった栗色の髪の毛を照れくさそうに摘んで綺麗に頬を綻ばせた。
そうだとしても、
それがどれ程崇高な彼女の美学だとしても、
「……それでも、納得できません」
私を思ってのことだとしても、これだけは許せない。